コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり) 筆:うつみしこう
自由庵憧鶏
じゆうあんしょうけい
Vol.12 『塩風呂』(はま湯)-Salt fot spring-
ブルッ、寒ッ。急に寒くなりだした。こんな時は風呂に限る。そうだ、塩風呂へ行こう!
今日11月26日は、語呂合わせで「いい風呂の日」だそうだ。そこで今回は、「塩風呂」について書こう。
塩風呂は、正式には『はま湯』というのだが、公募でつけられたこの名前、明浜の浜のお湯、当時町の花だった浜木綿にかけてなかなかうまい命名だったとおもうが、いまこの名称を使うものは誰もいない。天下の塩風呂でどうどうとまかり通っている。
塩風呂はいい!塩風呂が好きだ!
なんたって、ロケーションがいい。高山石灰鉱山跡地の高台にたつ白亜の建物には夢がある。四季おりおりの表情をみせる宇和海と島々を見渡せるオーシャン・ビューのおおきな浴槽もいい。
その浴槽も、「塩湯」・「ジエットバス」・「露天風呂」・「寝湯」・「ドライ・サウナ」・「ミスト・サウナ」(休止中)・「水風呂」・「軟水風呂」と8種類もあって、それぞれに楽しめる。飽きない。
それから、肝心要の効能だ。まずは、浴槽への入り口に貼ってある「効能書き」を読んでいただこう。
塩湯の効能
塩「ミネラル」は、人が生きてゆくためには、必要不可欠です。そして健康を
保つためには、ミネラルを補給し自然治癒力を高めることが必要です。塩湯に
入ることによって不要な毒素や乳酸の除去が行われ、血液の循環が良くなり、
リウマチや皮膚性疾患・循環器系などの治療に効果があると云われています。
この「効能書き」に嘘偽りがないかどうか、利用者に聞いてみよう(その中には、「年間入浴券」(3万円、ペアだと5万円)を買って毎日通っている俵津の3組のご夫婦もおります。もちろん、わたしの感想も入っております)。
○軽い肩こりや腰痛ならかんたんに治る。
○ストレス解消に抜群。
○疲れて風邪気味な時、サウナに入り、芯から温まって汗をしっかり出せば治る。
○湯冷めがこない。
○疲れにくい体になった。
○肌がきれいになった。
○リウマチが治った。
○熟睡できるようになった。
だいたいこのような感想が多かったので、この「効能書き」はほぼ正しいといえるのではないでしょうか。
ちなみに、『塩浴革命』という、伯方の塩(伯方塩業)設立者の松本永光氏の書かれた本から、塩浴効果の基本説を取り出しておきましょう。氏によると、
1.人間は、胎児期を海水の成分に似た羊水の中で過ごして生れてくるので、塩は人間にとって絶対的にいいもの・根本的なものである。
2.塩浴は、皮膚機能を正常化するので、体内から適当な皮脂と水分が出て、うるおい・ツヤ・ハリのある健康で美しい肌をつくる。
3.塩浴は、人間が本来持つ護身本能=野生の感覚=脳幹の機能をよみがえらせ活性化させ、免疫力をつける。
4.塩浴は、自律神経を正常健全にキープするので、その失調症候群とされる種々の病気を癒し改善する。この本には次のような病名が列挙してあります。あらゆる検査機器で『病気』を探しても説明がつかない、データに出ない病気、原因が分からない、病名がつく以前の不調、病気でない病気、見えない病気、心の安らぎを失ったやまい、全身倦怠感、不定愁訴、鬱病、自閉症、肩凝り、腰痛、便秘、下痢、目の疲れ、不眠、老人の若年化、慢性病、心身症、ノイローゼ、プッツン、めまい、どうき、頭重感、偏頭痛、胃かいよう、食欲不振、ゼンソク、糖尿病、リューマチ、肥満、ガン、アトピー、高血圧、抜け毛、禿げ、その他、非伝染性の病気など。
恐るべし塩浴。ただし、松本氏の「塩浴」と「塩風呂入浴」とは必ずしも同じではありませんので注意が必要ですが、話を半分以下にしても、塩風呂が健康にいいことはまちがいないでしょう。
塩風呂の良さ、わかっていただけたでしょうか。
■
いいことづくめの塩風呂だが、経営的にはお客さんが少なくて、むずかしいところもあるようだ。明浜町民にとって町の唯一のリラクゼーション施設でもあるので、市も財政援助をしてでも、末永く施設を存続させていただきたいとねがうばかりである。
塩風呂は株式会社(「シーサイド・サンパーク」)だから、経営陣は日夜その発展策を検討追求しつづけていることだろう。わたしたちがいらぬことをいう必要は全くないのだが、ただ、塩風呂を愛してやまない町民の中には、いかにも野次馬的ではあるが、こうしたら・ああしたらといろいろアイデアを出す人がいる。
たとえば、風呂仲間のSさんは、石灰鉱山跡の広場に「ゴルフ練習場」(打ちっぱなし)をつくったらどうかという。ゴルフ人口は不況下でもむしろ増えつづけているくらいだから、西予市圏内でもじゅうぶん採算はあうというのだ。練習で汗をかいたあと塩風呂で汗を流す客がくるだろうとの見込みである。
また、おなじ風呂仲間のHくんは、塩風呂施設内に「カラオケ喫茶」をもうけては、と案を出す。歌好きな彼らしい発想だがこれはいいかもしれない。
ついでだから、わたしのアイデアも書いておこう(塩風呂のみなさん、勝手書いてすみません)。
客が少ない、塩風呂を敬遠するという理由の多くが、塩風呂へ行くまでの道が悪い、曲がりくねっていて見通しが悪く、しかも一車線のところが多いので危険だし、ストレスを感じて精神的にも行きづらい、ということのようだ(塩風呂自体の悪口を言うひとはほとんどいない)。
だったら、その「道」をなんとか行ってみたいと思わせるような楽しいというか、面白いものに変えればいい。塩風呂へ行く行程(プロセス)を楽しむ、魅力的にするのだ。
この道は、一応「国道」(378号線)なのだからと、二車線化・直線化(短縮化)を期待しても無理なのはわかっているから、発想を変えるのだ。
では、どうする ?!
1. 「俳句街道」にする。
塩風呂の客として期待できるのは、まあ南予の人というか、せいぜい愛媛県内の人である。愛媛は全国一の「俳句県」である(「うどん県」というのもあったね)。愛媛が全国に誇る豪傑俳人・夏井いつきさんに選者になってもらって、県内から俳句を募集し、入選作100点の句碑(句柱)を、野福峠から塩風呂までの間に建てていくのだ。墓標のようになってはいけないので、デザインとか展示方法は考えなくてはいけないし、毎年変えなくては客層が固定化するので更新しなければならないが、入選した人は、仲間を誘って塩風呂に来るだろう。
2. 似たような発想だが、今度は全国の芸術大学の学生や市民に呼びかけて、「彫刻」「彫像」作品をこの街道に置こう。すこしあざといが、この中から将来有名な芸術家になる人が出れば、その作品を見に日本中から客が押し寄せるに違いない。というのは話がうますぎるが、芸術というものはそれだけで楽しいものだ、美しいものだ。われわれのくらしとこころを豊かにしてくれるものだ。
3. 桜や銀杏や欅の街道並木をつくったり、菜の花や水仙など四季おりおりの花で満たす街道づくりも大事だと思う。
4. さて。今度は、視点を「道」から離して、「裏山」(石灰鉱山跡)に移して考えてみよう。ここはほとんどが町有地(市有地)だというから、ここを「住宅地」にするのだ。いま「団塊」とよばれる世代が大量リタイアの時代を迎えている。都会の彼らに呼びかけて、ここに「終の棲家」つくってもらうのだ。移住してきてもらうのだ(別荘にしてもらってもいい)。一代限り土地代は無料にし、家は明浜の業者が建てるようにすればいい。新住民の子や孫や友人たちが大挙してこの町を訪れるようになれば・・・。
5. そして、最後だが、究極の方法がある!
これまでの案は、地域住民や市(県・国)の協力がなければできないことばかりだったが、今度は塩風呂会社が自分でできる案だ。
とどのつまり、どうせ客が来ないのなら、コンセプトを変えるのだ。「そんじょそこらの、並みのスーパー銭湯じゃないぜ」、と居直るのだ。
ずばり、先の『塩浴革命』の実践場にするのである。塩風呂の経営者も従業員も徹底的にこの本を読みこんで血肉化し、この本に基ずいた「塩浴の場」にするのである(カルト的なくさい場にしてはならない。気を付けよう)。
ただ、ちょっとした覚悟みたいなものはいるだろう。この本の「塩浴」には石鹸・シャンプー・リンス・トリートメント・コンディショナー・ドライヤー・化粧品などは一切いらないというのだから、誰しも一時抵抗感をぬぐえないとおもわれるから(かくいうわたしも実践にはふみきれていない)。
だが、人間の体を健康にし、家計の負担を軽くし、環境にもいいという「塩浴」は、まさに不安の時代の不安解消に寄与するおおきな事業となるだろう。マスコミも大きく取り上げてくれるに違いない。真剣に考えてみる価値はじゅうぶんにあるのでは、と思う。
できれば伯方の塩(伯方塩業)と組むというのもいい。明浜(俵津)にはこの業界のエクセレント・カンパニーがあるのに、ここと組まないのは、私から見ればもったいないとおもえる。さらに無茶々園がこれに加わればおもしろい展開が見られることだろう。
おもわず与太話をしてしまった。それもこれも「塩風呂」を愛してやまない故のこととてお許しあれ。おわりに風呂仲間のKくんのつぶやきをお聞きください。
「みんなジタバタしないで、仕事もほどほどにして、塩風呂に入りに来たらどうだ。どうあがいたって先は見えている。それではいい知恵もでんだろう。のんびり・ゆったりと首まで湯につかって海でも眺めてこそ、知恵はでるもんや。あけはまのこのすばらしい宝を真から味わおうとしないで、いったい何が始まろうというんや」。
2014・11・26 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
『塩風呂』はま湯の場所
はま湯 お問い合わせ
電話番号:0894-69-8035
Vol.11 宮崎川・花の回廊・散歩道-Miyazaki river park-
桜が、すでに満開だ。こんなに早い開花はちょっと記憶にない。この分だと4月6日の「野福峠・さくら祭り」には、花はもうないかもしれない、と心配が募るが・・・。
さて、今回は「俵津スマイルーいいまちづくり隊」に提案したわたしのプランです。コラムの8回目にわたしは西予市からの「交付金」の使い方として「(事業が終わった)5年後に俵津に大きな資産(財産)が残るような使い方が望ましい」と書いたが、その答えの一つがこれです。
【構想】
(主旨)
人も動物も水辺に集まる。むかし(昭和30年代まで)、宮崎川は俵津の人々の「仕事と生活と遊びの場」として、われわれの“くらし”と切っても切れない関係にあった。新田に“砂防ダム”が出来て、それは失われてしまったが、今また宮崎川は新しい魅力をただよわせはじめている。健康志向の高まりで、俵津住民の恰好の散歩コースとなり、初夏にはホタルの名所としてファミリーが訪れる人と自然のふれあいの場所となってきた。この川の両土手に花を植えることによって、この場所をさらに魅力ある空間としたい。「俵津スマイル」が創った記念すべき資産として後世に残したい。
(内容)
・明浜共選横の国道378号線に架かる宮崎川橋から、新田の狩渡橋までの宮崎川の両土手・約2キロメートルに花を植える。
・花は、桜(春)を主とし、夏にはひまわり(「小夏」または「ピノチオゴールド」)、秋にはコスモス、冬には水仙と四季おりおり楽しめるようにする。また川床には菜の花を群生させる。
・桜はすでに半分近くを老人会が植栽しているので、それを引き継ぎ発展させるというのが大事な点である。野福峠に次ぐ第二の俵津の桜の名所とする。
・桜が植わっていない区間は、わたしが車のメーターでざっと測ったところ1200mくらい。老人会が植えた間隔は7mくらいだから、新しい苗木が170本くらい必要。他の花は、土手の面積が土手幅を1mとしたら2000平方メートルだから、ここからタネの量を計算できるだろう。(これには普及所や県の花卉センターの指導を仰げばよいだろう)。
・その他の経費としてはホタルの養殖代、管理者の名前杭などがいるだろう。
・維持管理をどうするか。これが最も肝要な点だが、究極の方法がある。豊臣秀吉が墨俣の一夜城を作ったときのように分担するのだ。俵津はおよそ500戸。2000mをこれで割れば一戸当たりわずか4m(4平方メートル、一坪ちょっとだ)。実際には、高齢者やそんなことやりたくないという人がいて(もちろんかまわないのだ)ボランティアに参加していただく戸数は減るが、それでも無理な管理範囲にはならないだろう。
桜の苗木植えは大変だが、あとの花のタネ植え・水やり・草刈りなどはそれぞれがやるのだ(年間を通じて)。
俵津住民1300人が共通の目的意識をもって集う究極のコミュニケーション事業にもなるというわけだ。絆はさらに深まるだろう。
・むかしの「4月3日の俵津の花見」を復活させよう。この日は片側を車両通行止めにして、うたや踊りもやって、一日をにぎやかに楽しく過ごそうではないか。川床に鉄パイプのやぐらを組んでコンパネをのせて、そこで宴会をやれば興趣はいっそう高まるだろう。
・もし、周辺の農地に荒廃園ができたら(あって欲しくはないが)、そこを借りてイスやテーブルを置いて憩いの場をつくろう(財産区有林の間伐材利用)。要するに、俵津住民全員の「公園」にするのだ。
・超高齢化社会が来ている。心も体も健康になるこの事業で、健康年齢を引き上げ、豊かな老後がおくれるようにしよう。
・こういう目で見直してみれば、宮崎川はものすごい俵津の「資源」ということになりはしないか。その資源にさらに付加価値を付けようというのがこの構想だ。
【宮崎川物語】
ついでだから、「われわれのくらしと切ってもきれない関係にあった」むかし(昭和20~30年代)の宮崎川のことを少し書いておきたい。
○河口付近では、イワガキやアサリがよく獲れた。アオサもあった。また釣り餌になるエムシ(ゴカイ)もたくさんいた。干潮のときにはひとが群れた。潮が満ちると、今度は(夏の話だが)子供たちの海水浴場が店開きだ。
○河口からちょっとあがった多門寺川が合流するあたりには、春になるとNさんが簗をしいてシラウオ漁をはじめる(漁業権を買っていたのだろう)。その簗をすりぬけて遡上するシラウオを子供たちはおかまいなしに古い蚊帳などをつかって獲っていた。するとどうしても川を汚すので、Nさんは血相を変えて怒っていた。
○シラウオを入れたアオサ汁は、格別にうまかった。
○「夜川(よがわ)」をやった。ブリキのバケツにカナツキ、ヒバサミなどを持って友人たちや家族と夜の川狩りに出かけるのだ。ツガニ・ウナギ・八チョエビなどがわんさかといた。
○ツガニは、この川にはとくによくいた。むかしの宮崎川は夏になるとよく干上がったが、溢れるような雨のあとには、先導するようにか懸命に逃げるようにか大量のツガニが川水の前を何重にもおり重なって走っていた光景を思い出す。それを獲ってもよく食べた。
○河原では、トンボやバッタやスズムシなどもよくとって遊んだ。とくに赤トンボ(アキアカネではなくウスバキトンボ)は顔にぶちあたるほどいた。
○新田の子供たちは、川に水のない時期には、ここでソフトボールをよくやった。そんなに広い河川敷があるわけではないので、川の中の邪魔になる大きな石もとりのけてやった。何十人もの子供たちが一列に並び、土手下へ向けて石を投げる様子は壮観だったろう。
○川の中流・上流にも泳げる場所はたくさんあった。飛び込み(どん腹おとし)もできたからけっこう深い所もあったのだ。
○川の水は、生活用水でもあった。大人たちは洗濯に使い、子供たちは風呂水(五右衛門風呂)として運び上げた。
○河原を開墾して野菜畑として使う人もいた。
○仕事場でもあった。芋を洗い、仮小屋を建て切り干しをつくった。
○今では絶滅したといわれているニホンカワウソもいた。月と家明かりにてらされて岩の上にたたずむカワウソを、わたしも見たことがある。
○満月の晩、山から下りてきて川淵にいた月光に白く輝くキツネも見たことがある。
○上流では、水車の残骸がまだあった。宮崎川沿いには米を搗く水車小屋が三軒あったと聞いている。
○□□やんとよばれていたおじいさんがいた。学校から帰る小学生のわたしたちを待ち受けたように呼び止め、土手にすわらせて、日露戦争の話をして聞かせた。乃木大将の話はとくに力が入っていたのを覚えている。
○昔の川は、今のような堅固な堤防に囲まれた水路としか言いようのないようなものではなく、すぐに上がり降りができて、くらしに密着していた。
○それだけに過去には災害もあったようだ。年寄りがよく語るのは、昭和18年夏の三日三晩降り続いたという集中豪雨だ。この時は、新田の家が三軒も流されたということだ。
○昔はよく干上がったこの川も、今では南予用水の漏れ水のおかげで年間をとうして水がある。ホタルが増えだしたのも、餌となるカワニナが生息する環境が出来たということが大きい(もちろん「新田こせがれ会」の努力があってこそだが)。
○旧海岸四ケ村で一番大きな川は、言うまでもなく宮崎川だ。大きな川は広い土地を生み、豊かな実りをうみ、豊かなくらしをつくる。川はたいせつだ。川は素晴らしい。
○宇都宮末夫さんは、宮崎川にかかる新田の狩渡橋を舞台にした『狩渡橋情話(かりとばしじょうわ)』という物語(脚本)を書いた。それはかつてあった「新田ふるさとまつり」において3年間にもわたって演じ続けられた。いまだに俵津の語り草になっている。この川は人の心に「ものがたり」を育むのだ。
【おわりに】
これからのまちづくりには、「美をつくる」という観点が重要だと思います。美の要素としては次のようなものがあるでしょう。
①もともとその土地にある自然(たとえば野福峠・宇和海など)。
②それに手を加える人間の営み(野福峠のさくら道など)。
③建築。
④住宅地、公共空間、農・商地などを意識的に統一観ある配置にすること。
⑤ひとのこころ。
時代の潮目が変わりつつあるのを感じます。スローライフを求める若者や団塊世代などが田舎に還流する傾向が少しづつ出始めています。魅力ある美しい俵津をつくって、その動きを促進することが求められています。
2014・3・25 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.10 田中 恒利 さん-Tunetoshi Tanaka san-
その日を、わたしは密かに(個人的に)X(エックス)デーと呼んでいた。とうとうその日が来てしまった。2014年(平成26年)1月12日。俵津にとって空前絶後の人・田中恒利さんが逝ってしまわれた。
葬儀の参列者・弔電等によってもあらためてその偉大さを知らされたわれわれであった。謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。
1
今回は、田中恒利さんのことを書かせていただきます。
このホームページを見てくださるのは、俵津の人と全国にいる俵津出身者とその家族、それに俵津に心をお寄せいただくあたたかい方々だと思います。その中には、田中恒利さんのことを知らない人たちもいるかも知れないので、はじめに「略歴」を(「略年譜」にして)紹介しておきます。
大正14年(1925年) 4月1日 俵津村に生まれる。
昭和11年(1936年) 一家で宮崎県延岡市へ。
昭和13年(1938年) 延岡商業入学。
昭和18年(1943年) 同校卒業、宮崎県新田原の陸軍気象観測隊入隊。
昭和20年(1945年) 敗戦後、俵津へ帰村。
昭和22年(1947年) 前年呱々の声をあげた新生俵津青年団の二代目団長に。東宇和青年団では社会部長に。
昭和23年(1948年) 東京へ。日本大学(社会学部)入学
昭和26年(1951年) 3月同大を首席で卒業し郷里へ。宇和高校教師となる。
昭和28年(1953年) 愛媛県農村青壮年会議・事務局長就任。この年、川端幸恵さんと結婚(のち、三女をもうける)。松山へ。
(その後曲折あって、愛媛県農協中央会へ)。
昭和44年(1969年) 日吉の井谷正吉氏の後継者として、第32回衆議院選挙に日本社会党から立候補 (愛媛第三区)。初出馬、初当選を果たす。俵津に居を移し、金帰火来の激務の日々をおくることとなる。
昭和47年(1972年)、昭和51年(1976年)、昭和54年(1979年)の3回の総選挙で落選。
臥薪嘗胆・捲土重来・艱難苦節の8年を送る。
昭和55年(1980年) 第36回総選挙でトップ当選。以後、昭和58年(1983年)、昭和61年(1986年)、平成2年(1990年)、平成5年(1993年)と連続当選。
初当選以来一貫して農林水産委員会で農政畑を歩き通す。
平成1年(1989年) 幸恵夫人急逝(享年60歳)。
平成7年(1995年) 内閣委員長として、「海の日」を制定。
平成8年(1996年) 惜しまれつつ、政界引退。社団法人日中農林水産交流協会・会長理事に就任
(~2002年)。以後も日中友好に尽力。
田中恒利さんを知る資料として、次の二冊がある。(わたしのこの文章はこれによっております)。
①『恒さんと農民運動 南予の土と人間の絆』(平成15年7月21日発行、恒さんとえひめの農民運動史を 紡ぐ会)
②『野福峠 田中幸恵さんを偲んで』(1991年6月1日発行、田中幸恵追悼集編集委員会)
2
“火の玉”のような人がいた、というのが田中さんについてのわたしの印象だ。わたしが初めて田中さんを知ったのは最初の選挙の時だったから、わたしは田中さんの青春時代をまったく知らないのだが、国会議員となった田中さんの側によるとほとばしる熱線を感じたものだった。とにかく熱かった。
田中さんの内部に燃えていたものは何か。南予の窮乏する農民を何とかしなければならぬ。日本の農業・農民を豊かにする農政を築かねばならぬ。戦後の新憲法によって日本を民主化しなければならぬ。正義をこの世にうちたてねばならぬ。そうしたさまざまなゾルレン(当為)が内に燃えさかっていたのだろうと想像する。たとえば、田中さんが作詞した「俵津青年団歌」(後掲)を読んでいただくと、その一端が分かるだろう。敗戦直後の精神の高揚期とはいえ、これほどの熱量のしかも高潔な詞は、そう書けるものではない。
最愛の幸恵夫人を亡くされてからは、傍目にも痛々しいほど弱られていたが、マイクを握って演壇に立った時の田中さんは、やはりあの熱い田中さんだった。
司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』で「竜馬は土佐にあだたぬ者(器が大きすぎて土佐にはおさまりきれない者)」と周辺の者に言わせているが、田中さんも同じだったろう。なのに活躍の舞台を東京に置かず、ここに腰をすえて不動だったのは、青年団や農協や労組等の優れた仲間や友人たちと南予の郷土と農業を愛してやまない田中さんの熱い心があったからに違いない。国会議員という生き方=地方(根拠地、橋頭堡)から東京に打って出るという形を見出し、そのスタイルを確立したことも大きかった。この俵津に住みつつ偉大な仕事を為した田中さんはやはり稀有の存在だった。
3
わたしは、このコラム「俵ランド物語」で、俵津と俵津人の物語を綴っているが、「田中恒利さんを国会に送る運動」こそ、戦後の俵津でわれわれが為した最大の「物語」だったな、と今思う。その登場人物の(端役でも)一人になれたことを心から嬉しく思う。田中恒利さんと同時代に生きられたことに感謝する。
思えば、俵津人のエネルギーはすごかった。1969年12月の衆院選初当選から、1996年に引退するまでを支え続けた俵津人もまた偉大だった。
数々のドラマがあった。初出馬・初当選の奇跡(歓喜で俵津中が沸騰・爆発したねえ)。ハナゴ(875票)差で敗れた1976年の3回目の戦い(ああ、あの時は、夜遅く宇和島選挙事務所から帰る田中さんを立間まで迎えに行き、みんな泣いたねえ。泣いたねえ)。3回連続で敗れた後のトップ当選(もはや奇跡ではない確かな勝利にみんな酔ったねえ)。
田中さんの運転手をつとめて南予中を駆け回った青年部の活躍もドラマだった。一銭の見返りも求めない無私・無償の俵津人の選挙運動もドラマだった。
町外の人が驚く。「よくもまあ、こんな小さな所から国会議員を出せたものだなあ!」と。「俵津のパワーは、まったくスゴイ!」。
4
ある日、野良(みかん山)で、威勢よく回る薬剤散布のスプリンクラーを見ながら、友人のYが言った。「あのクーラーも、このモノレール(単軌道)も、みんな全部田中恒利さんがやったもんだよなあ。あん人は何事も自分でやったやった言わん人やったから誰も知らんけど」。
わたしはここで田中さんの≪事績≫をしっかり書き込んでおこうと、上記資料①をめくってみるが、記されていない。ただ、次のような記述があったので少し長いがそのまま写しておく。
恒さんが取り上げた国会活動を総括してみると、次のような諸対 策にまとめられようかー
1、出かせぎ問題とその対策 2、農林年金に関する対策 3、農林水産物の輸入自由化反対に関する対策(米、蜜柑、牛乳、牛肉、木材) 4、食糧自給率の引き上げに関する対策 5、農畜産物価格に関する対策(米、みかん、牛乳、牛肉、蚕糸等) 6、米の生産調整、食管制度のあり方、それら運用に関する対策 7、みかん及び果汁の生産、価格、調整、自由化反対、果振法の改正等に関する対策 8、地域工業導入による公害、医療、保健、雇用問題等に関する対策 9、海洋汚染、水質汚濁等の防止、海の環境破壊に関する対策(ダイオキシン問題) 10、魚介類の価格・流通に関する対策 11、特に大規模畜産農家の多額な負債処理に関する対策 12、ウルグアイ・ラウンド農業交渉に関する対策 13、モノレールの導入設置に関する対策 14、さめ被害による労災取得に関する対策 15、有機農業の普及・振興に関する対策 16、松くい虫の被害と防除等に関する対策 17、デカップリングに関する対策 18、農産品規格化、表示等、JAS問題に関する対策(ガイドライン) 19、林業の振興に関する対策 20、協同組合法等の整備、運用に関する対策 21、原子力、反原発に関する対策 22、国会審議および国会改革等に関する対策 23、“海の日”の制定に関する対策などなどである
①164~165頁。漢数字を算用数字に変えさせていただいた)
これを見ると、いかに田中さんが地域住民の切実なしかも多種多様な課題に応えようとして懸命に奮闘したかが、痛いほどわかる。このような姿こそが真の政治家というものではないだろうか。われわれの俵津はこのように見事な人物を持ったのである。
5
大浦の柳谷農道の入り口から少し入った所に、南予用水事業(県営緊急畑地帯総合整備事業)の記念碑が建っている。そこに刻まれている「志水潤農」という四文字。これは田中さんの言葉だ。昭和42年の未曾有の大干ばつを機に起こった南予農民の切なる願いを形にし、野村ダムの水を分け与えていただいた野村町民の友情に応えた「志水」。それが静かにふるさとの農業を潤している姿を見ながら、田中さんは微笑みを浮かべて心底喜んでいたにちがいない。
『俵津青年団歌』
作詞 田中恒利
作曲 増田正直
一 龍王の峰 そびえ立ち
海原とおく 波 静か
理想郷土の 建設に
若き力を 相結び
いざ進まんかな 我が友よ
我等は我等は 俵津青年団
二 自立と意気と 情熱を
注ぎて築け 我が友よ
修養の道をば 相共に
朝な夕なに つとめなん
見よけんらんの この一途
我等は我等は 俵津青年団
三 暁闇の中 高らかに
振るう生産 鍬の音
祖国の光り 身にあびて
若き血潮は 躍動す
果たせ日本の 新曙光
我等は我等は 俵津青年団
※ ひとびとの記憶が薄れゆき、青年団関係の資料も散逸していく 中、宇都宮英利さん・田中清一さんのお二人に見つけ出していただきました。感謝です。
※ これは「名詞」だと思います。敗戦後の二十世紀の真ん中に立ち上がり、爽快に意気軒昂と若者の気概を謳ったこのすばらしい歌を、この後もずっと伝えていきたいものです。
2014・2・1 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.9 俵津発展策を !-Development measure to Tawarazu!-
新しい年・2014年がやって来た。
今年は、この「俵ランド」にどのようなものがたりが展開されるのだろうか。
春から夏にかけての時期には、新俵津玉津トンネルが開通する。俵津湾岸道路・県道野福線もさらなる進捗を見せるだろう。工事が始まる小学校の統合新校舎も、その斬新な姿をあらわすだろう。無茶々園が建てる介護ホーム「めぐみの里」もオープンする。新しい希望が、俵ランドに生まれることを切に願うことひとしおの正月である。
正月にふさわしいあかるい話題を、と思ってあれこれ思案してみるがどうにも思い浮かばないので、むかしの人たちが熱く語った俵津活性化策のようなものについて少し列記してみることにしたい。もう45年前ほどにもなるわたしが青年団時代に仲間たちで語りあったことや、今日までに多くの先輩たちから聞いた話だ。
①俵津発展策について、みんなが第一にあげたことは、国道56号線への二つのアク セス道路(俵津~立間線と俵津~宇和の野福線)の二車線化と最短(縮)化だ。宇 和島・吉田、宇和・八幡浜・大洲への通勤・通学を容易にするためだ。俵津が人口 を維持し、持続的な発展をするためには何よりもこのことが大事だ、というみんな の思いは悲願にまでなっている。
もっとも、いやそれは違う。むしろ「秘境化」が大事だ、という人もいる。高知 県の馬路村のようにあえて道路をよくしないで、苦労して馬路村までやって来て、 村を見たときの感激度を増大させるという発想だ。しかしこれは馬路村のようにど うしてもそこへ行きたいと思わせる「仕掛け」(むらづくりの成果)があっての策 だろう。
②県道俵津~三瓶線を開通させる。八幡浜・別府・佐賀関への道をひらく。
③国道378号線のルートを、立間~白浦~俵津~三瓶とする。これによって、吉 田・宇和島以南の人たちに、八幡浜へ行く場合、俵津を経由してもらう。逆に、九 州・八幡浜・三瓶のひとが吉田以南に行く場合にも俵津を経由してもらう。このこ とによって、野福峠の景勝地を売り出し、道の駅なども設置して地産物を売り込 む。
狩江・高山・田の浜の道は、海岸ではなく佐田岬半島頂上線・メロディラインの ように真っ直ぐな頂上線(レインボーラインと名付けよう)をつくり、この道に接 続する。
④俵津湾は、大浦の波止から脇の波止を結ぶ線まで埋め立てる。住宅政策を展開し土 地・住宅を安く提供し、宇和島経済圏、八幡浜・大洲経済圏のベッドタウン化を図 る。商店街もつくり、にぎわいをつくる。
⑤野福峠に、桜を一万本植える。俵津が日本と世界に誇れる唯一の資産は「野福峠」 だ。ここを世界一の桜の名所にすることで発展の道をさぐる。
⑥俵津の農業・漁業の振興策
・宇和青果から離れて、単独でやる。。
・東京の市場へ出荷するだけではなく、自分で値段をつけて自分で販売する。
・大山町(大分県)・馬路村のような独自な生(行)き方をつくる。
・俵津湾・法華津湾(宇和海)に魚種と魚量を増やし、さかなのまちをアピールす る。
・グリーンツーリズム・ブルーツーリズムによる発展策をかんがえる。
⑦「俵津文楽」による町おこし。熊本県の旧・清和村(現・山都町)のように文楽を 産業化する。同町は1992年200人収容の文楽館を建設し、年200回の公演 をして収益をあげているという。わがまちも、大浦のむかし小学校があったところ を買い取り、ユニークな会館を建ててはどうか。
⑧みかんの荒廃園対策。農道をはりめぐらし、園地を区画化し(5アール~10アー ル単位)、西予市はじめ近隣の市町村から希望者を募り、ミカン園の貸農園事業を 展開する。糖度13度以上の全国どこへ出しても自慢できる最高のみかんができる 大浦地区から取り組む。
⑨エネルギーの自給。小水力・太陽光・風力・潮汐・バイオマスなど再生可能(自 然)エネルギーで、俵津全体の電力をまかなえるようにしたら、これはすごいこと になるのではないか。
⑩明浜町議会の議員数を倍増する。議員の半数を女性とする。
給料制でなく日当制に。
⑪人材育成のシステムづくり。小・中・高生の優秀な子どもたちを、口説いて奨学金 を投じて勉強させ、国家官僚・県庁職員・大学教授等におくりこむ。あからさまな リターンは求められないが、やはり違いはやがて出てくるだろう。まちづくりに は、深謀遠慮がいる。
⑫ひとを来させる。とにかく来させることを考えなくてはならない。人が来ればさま ざまな町おこし展開ができる。ちなみに、先の大山町は年間70万人、馬路村は
20万人が訪れるという。
⑬「明浜町」をつくる時、法華津湾を囲む海岸四ケ村(豊海村・高山村・玉津村・白 浦村)による合併を考えるべきであった、という人も多い。漁業と農業を主産業と するこの地域は、各条件的に一致する点が多いので、「法華津湾共同体」をつくる べきだった、というのである。いま考えても魅力的な構想だったというべきだろ う。
それから、明浜町の庁舎は俵津に置くべきだった、という人も多い。こんなこと を言うと、高山や狩江の人たちから批判されるかもしれないが、松山から、宇和島 から、東京から最も近い所に、町の発展をかんがえれば、中心を置くべきというの がその主張だ。(こんな論争が、かつてあったということは今の若い人たちは知ら ないだろうから書いておく)。
まだまだあったような気がしますが、今日はこのくらいにします。いずれにしても、今年はみんなで俵津のことをいろいろ話し合う年にしたいですね。今だったら、上記の他にどんなテーマがあるでしょうか。思いつくままに書いておきます。
(あ)公民館エリアの利用率を高めるには、どうしたらいいだろう。(「公民館エリア」とは、俵津公民館・老人福祉センター・駐車場・クラブハウス・旧水道施設・倉庫・診療所・保育所などで構成される場所のこと)。
(い)国道378号線の「湾岸道路」が出来て、利用可能な空き地ができた場合の利用策は?
(う)俵津の5年後・10年後・20年後は?
(え)俵津の「希望」さがし。
(お)「俵津名物」をつくれないか?
(か)法華津湾を魚の宝庫にする方法。
(き)「塩風呂」(はま湯)の利用客をふやす策はあるか?
(く)俵津独自の「幸福度指標」のようなものをつくれないか。一人当たりのGDP(国内総生産)というようなものでなく、ブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)みたいなものを。
(け)???
2014・1・3 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.8 話し合いが足りない!-Talks are insufficient.-
俵津のまちづくりについて、みんなで考える組織ができている。「俵津スマイル -いいまちづくり隊-」だ。
発足は、平成23年4月。きっかけは、西予市の「地域づくり交付金」事業が始まったことによる。この交付金は、
・「自分たちの地域は、自分たちの手で」を基本理念に、地域住民主体の〝自由な発想での地域づくり〟を支援する。
・地域の課題解決や次世代につなぐための公益事業に使用。
・小学校区を単位に市内27の地域で、地域ごとに設立された「地域づくり組織」に対して交付。
・市内全体で、23年度は7500万円、うち俵津は218万1000円。金額は年度ごとの予算事情に制約されるもののほぼ同額を27年度までの5年間交付。
というもの。
はじめ、この事業を知った時のわたしの感想は次のようなものだった。
①人気取り政策(しかも中身の伴わない)ではないか。わたしはすぐに24,5年前だったかの竹下登内閣の時の「ふるさと創生金」事業(全国3300の自治体に一律1億円を配るというもの)を思い出した。この時も、人気取り政策ではないか、安易にムダな予算を使うなとたいへんな批判が出た。
②上記の趣旨の割には、金額があまりに少なすぎる。
③すでに使途が決まっている部分があるため、実際に自由に使える金額はさらに減る。
④行政の怠慢、責任転嫁ではないか。
しかしながら、よくよく考えて、わたしは思い直した。何はともあれ、このような西予市の事業でもなければ、なかなか「俵津スマイル」のような組織は出来なかったのは間違いないのだから、不平を言うべきではないだろうと。 確かに、いま、みんなでこのまちのことを考えあう場は必要だ。
さて、ところでしかし、なんということでしょうか。このわたしまでもその委員に入れてもらっているのです。会合にははりきって毎回まじめに出席させてもらっております。そこで思うのは、「圧倒的に、話し合いが足りない!」ということです。
この交付金の使途を考える話し合いの道筋を、わたしは次のように描いてみました。
●交付金の使い道を考えるプロセスを大事にしたい。
●まず、俵津の将来像(ビジョン)をつくる。それに基いてそこへ至る有効な使い道を考える。
●各委員会・各団体が少しづつ分け合うような、いうなれば分捕り合戦みたいなものにしてはいけない。
●5年後に、俵津に大きな資産(財産)が残るような使い方が望ましい。
言うは易し、行うは難し。なかなかむつかしいことです。でも、この機会にもっともっといろいろな話をしたほうがいいような気がします。時間をたっぷりととって。
地域住民の話し合いが少なくなった理由(のようなもの)を考えてみました。
(い)時代のスピードが速くなって、わたしたちの心に余裕がなくなっている。
(ろ)むかしは、地区の農家が占める割合が4~5割もあり、共通の話題があって、多くの人が集まった。農業の将来への希望みたいなものもいまよりはあり、みんなの意欲もあった。いまは2割を切っている。
(は)高齢化。
(に)職業の多様化。意識・関心事の多様化。
(ほ)俵津地区外で働く人の増加。
(へ)青年団や婦人会などの民主団体の活発な活動がなくなった。
(と)家の構造の変化。土間・囲炉裏・縁側がなくなり、気密性・防犯性が重視されるようになった。
(ち)集落の核になる家、ひとが集まる家がなくなった。
(り)公民館の利用制約(時間など)。昔は朝まで飲んでもよかった。
(ぬ)酒を飲む若者が少なくなった。
(る)ネット社会になった。
(を)1980年代をピークに、日本国民は世界最強の豊かさを手に入れた。モノとカネがあふれ、欲求は満たされ、話し合って団結し、要求を貫くというようなこともいらなくなった。
でも、そうであればこそまた現代的な課題も生まれてきているというのも事実です。話し合えば、もう少しだけわたしたちは幸福になれそうな気がします。もう少しだけこのまち・俵津はいい町になれそうな気がします。
最後に余談を二つほど。
○「ふるさと創生一億円」ですが、当時わたしたちは「明浜町青年海外派遣協会」をつくって、まちづくりを担う人材を育成しようと活動していました。それが認められて、当時の明浜町(酒井正直町長)は、そのうちの
1000万円をポンとくれたのでした。まことにありがたいことでした。
○これはぜひ言っておかなければなりません。この「ホームページ」は交付金事業の一環としてつくられております。みなさまのさらなるご支援をよろしくお願い申し上げます。
2013・10・21 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.7 水戸黄門-The vice-general of Edo-bakufu-
俵津に於いては黄門さまの様な存在
先々代 公民館長 先代 公民館長
平日の午後四時は、俵津の年寄りのゴールデン・タイムが始まる時間だ。
テレビの『水戸黄門』の再放送があるのだ。
この時間帯には他に『京都迷宮案内』とか『科捜研の女』とか過去に放映された人気番組が目白押しだが、
年寄りの一番人気はやはり黄門様だ。何たって肩がこらない。筋がわかりやすくて安心して見ていられる。
ビールを飲みながら、黄門さまご一行の活躍に声援を送るのが何よりの楽しみなのだ。
そして、日中たまに年寄りが集まると、『水戸黄門』談義に花が咲くこともある。こんな具合に。
老人A 水戸黄門はいつ見ても面白いのお。あれ見ながら飲ると酒がうまいわい。ところでみんな、どの黄門さまが一番エエと思うかの。
老人B わしは、やっぱり初代の東野英治郎がええわい。ちいとガラは悪いが、あっはっはっはのあの高笑いは東野が最高や。快活でスカーッとする何とも言えん笑い方や。新劇の舞台で鍛えた演技力も抜群やし。凄みもある。
老人C おらは、二代目の西村晃や。何といっても品がある。とぼけた味のユーモアがある。
歴代ナンバーワンは動かせん。
A いやいや品といえば、最後の黄門さま・里見浩太郎がいちばんぞ。
あの落ち着き払った堂々たる存在感。もともとこの番組は里見のためにあるようなもんや。
助さん役で最初のほうからずうっと出てて、全部の黄門さまを見てるからあの風格が生まれるんやろな。
B そうかの。わしにはあんまりおさまり過ぎてつまらんがの。
C 佐野浅夫の名が出んな。彼はちょっと落ちるかの。
庶民性は一番あるが、そこらのじいちゃんみたいな黄門さまやったな。
石坂浩二はずいぶん知的な黄門さまが出てきたなと思って注目したけど、ざんねんやった。
老人D登場 おう、おまえら何つまらん話しよるがぞ。
水戸黄門いうたら、やっぱ、由美かおるやないか。毎回見せてくれるお風呂シーンのあのお色気。あーたまらん。
B おっとお。・・おっ・おぬしも好きよのお。
A・C あっはっはっはっははは
A おかしげな奴が来たけん、話が下品になってしもうた。
D 何言うとる。人間なんぼになっても色気と食い気ぞ。
それなくしたら、むこん山(丸山・お大師様)が近こなったゆうことぞ。
B 気を取り直してと、助さん格さんはどや。
A 助さんは、これは誰が見ても里見浩太郎やな。杉良太郎は名前ほどやなかったな。
格さんは何と言うても横内正。
C うん、そのとうり。「静まれい。この印籠が目に入らぬか」の名せりふ、この格さんでなきゃ。
A 黄門さまと助さん格さん以外では、だれがええぞ。
B 誰がナンチュウても風車のや弥七・中谷一郎。
体つきは屋根に飛び上れそうな身軽さを感じさせんが、演技がしぶい。弥七が出るだけで画面がぎゅうっと締まる。
C 高橋源太郎。うっかり八兵衛がいい。役柄でバカにしちゃいけん。すごくいい役者やな。
D わしはやっぱり、由美かおるや。
一度お代官様になって芸者のお銀の帯をこうくるくるくるうっと解いてみたいのお
一同 うふぉおっと。おぬしも、ワルよ、のお。あっはっはっはっは。
B どうも調子くるうな。ところで、『水戸黄門』は永遠のマンネリズムというか毎回似たような筋やが、それにしても何千回にもなるあの脚本は、とうてい葉村彰子一人で書いてるわけないやろな。
A あれは何百人という脚本家志望の若者が書くんやないか。
高山のNくんが東京におった時、彼の友人が応募して採用されたとかされなかったとか聞いたことがある。
C そうか。やっぱ回によっても出来不出来はあるなあ。そいつのこというわけやないけどな。
D ところで、松平健の『暴れん坊将軍―吉宗評判記』が出てから黄門さまの印籠の効きが悪うなっとりゃせんか。
A どういうことぞ。
D いやな。黄門さまは天下の副将軍やろ。吉宗は将軍やな。
その将軍様が直接悪人の前で「予の顔、見忘れたか」と恐れ入らそうとしても、悪人バラは全然ゆうこときかん。
A なるへそ。それもそうやな。面白いこと言うやっちゃ、おまえは。
C ・・・・・・
B ちょっと場あ白けさすけんど、黄門さん、ちょっとお節介すぎると思う時がある。百姓や町人が団結して、権力に立ち向かおうとしてる時お節介してしまって彼らの自立の芽を摘んでしまう。
敗けるのは仕方なくても百姓や町人の雄々しい姿も見たいなあ。
A それは無理というもんぞ。誰かが、映画か小説でやってくれんとな。
C いや。おれたちがアングラ劇団立ち上げてやるというのも・・・。
B 「新田ふるさとまつり」、・・・復活させるか。
D わしらの劇団の名前は、「夢の徘徊老人舎」がええの。
一同 おおっー。
2013・9・23 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.6 TPP-環太平洋戦略的経済連携協定-
Trans-PacificStrategic economic Partnership Agreement(環太平洋戦略的経済連携協定)というのがTPPの正式名称だそうだ。
そのTPPハリケーンが吹き荒れている。
このまちの人たちは、TPPをどう思っているのだろうか、聞いてみた。だいたい次の四つに分けられる。
①みかんは、すでに自由化されているので影響はないのではないか。その自由化後も 大したことはなかったので、今回も同様に心配するには当たらないだろう。
②反対だ。TPPに参加すれば、日本農業は壊滅し、農協の存在も危うくなる。
③TPPは、こわくない。むしろこれを機にアジアの富裕層に向けて、高品質のみかんを 輸出していけばいい。
④よくわからないが、国が何とかしてくれるだろう。
これに、積極的賛成派がいてもいいのだが、わたしが耳にした限りではそれはなかった。きっとTPPは農業者に酷な協定だとおもわれているから、心優しい彼らは気を使って言わないのだろう。
わたしの考えは②の「反対」だが、それぞれにわたしのコメントを記しておきたい。
①に対しては、
おいおいそれはないんじゃないの。グレープフルーツ・レモンから始まってオレンジ・果汁の自由化までの過程で、われわれ百姓がどれほど悲嘆にくれ絶望的になったか。激しい怒りに燃えて反対運動をやったか。東京の日本武道館まで行って、「自由化阻止全国果樹生産者総決起大会」までやった、あの熱い連帯の季節を忘れちゃいけないよ。
自由化決定後は、柑橘産業の縮小が急速に進み、国内柑橘の需要減少が続き、減反してもなお価格低迷に歯止めがかからない状態が続いたよね。後継者もほとんどいなくなって、今じゃ日本農業者の平均年齢は66歳にまでなってしまった。われわれの血と汗と涙の辛酸をなめつくした人生というか歴史を忘れたらいけんぞ。
それからもうひとつ、考えなきゃならないことがある。みかんを買ってもらう国民のフトコロの問題だ。
TPPというのは、いわゆる市場原理主義(新自由主義)に基ずくグローバリズムの極端なというか究極のというか行き着く果ての形だと思うので、これは99パーセントの国民が貧乏になる。これまでグローバリズムは世界中に格差と貧困を作り出してきた。そこから人々のこころに深い底知れぬ怨念も生み出した。グローバリズムは、1パーセントの人にしか、特定の国の特定の権力を持った人にしか富をもたらさないことが誰しもの目に見えてきた。
日本は1980年代まで「一億総中流社会」と言われたほどに国民みんなが豊かだったが、今はどうだろう。2013年の今、自分を中流だと思っている人が果たしてどのくらいいるのか。それがさらにTPPに参加することで、どんどん下流化する。つまり、国民のみかん購買力はどんどん減っていくのだ。
TPPが農業問題だと言うのは、明らかな間違いである。・
こんなことも考えてみよう。TPP参加11ケ国(日本が入れば12ケ国)全部の国が、「輸出」によって国を発展させたいと考えているということだ(「輸入」立国を立ち上げようというところはひとつもない)。そんな関係が果たしてなりたちうるものか。
アメリカのオバマ大統領は2010年の年頭教書演説で、「輸出を2倍にして、リーマンショックで落ち込んだアメリカを立て直す」と言った。そこからTPPの現構想が立ち上がった。2008年のリーマンショックまで、アメリカとその国民は、世界中のモノを借金までしてじゃんじゃん買ってバブルを謳歌していた。今、その力はアメリカにない。かつてのアメリカの役割を果たす役割を担わされるのは、この日本ということになる。アメリカも他の国もみんな日本を当にしている。日本の企業も輸出をしたかったら、新興国に工場を移して、そこから日本に向けて輸出をしなければならない、というまことに変なことになる。
われわれ日本国民の富は根こそぎ収奪されるというのが、わたしのTPP理解だ。こんな協定には参加すべきではない。われわれは世界ともっといい関係を築くことができるはずだ。
②について
日本農業が壊滅するというのは本当だろうか。そもそもの政府(農水省・経産省) が影響試算でそう言っているのだからそうなるのだろう。民主党政権当時の前原外 相も「日本のGDPの第一次産業の割合は1・5%だ。1・5%を守るために98・ 5%が犠牲になっている」と言ったくらいだから、日本に農業はいらないということ だろう。われわれ農民の存立基盤がなくなるのだから、これは反対せざるをえな い。
それから、われわれ農民の砦・農協のことだが、農協もTPPには反対の立場をと っている。「TPP交渉参加断固阻止」というその態度を徹底的に貫いて、反対農民の 先頭に立ち続けてもらいたい。決して条件闘争などやらないでほしい(どうも中央 会の萬歳章会長の態度がおかしいのでこれは言っておく)。利口ぶって条件闘争な どしていると結局その行き着くところは「農協解体」だろう。漏れ聞くところによ ると、アメリカのグローバル多国籍企業は、農協の「共済」事業を非関税障壁とし てやり玉にあげようとしている。小泉郵政改革のあとは「農協」だといっていたの をもう忘れたのだろうか。
③について
わたしは、こういう何事にも前向きで強気で向かっていく人たちこそこの町に必 要だとおもっている。こういう人たちには、今すぐにみかんを輸出していくシステ ムを構築するべく行動を起こしていただきたいと思う。どんな事業でも軌道に乗る までには、5年・10年という歳月がかかるのだから。
別に嫌味や皮肉でもなんでもないが、わたしは中国の富裕層のためにみかんをつく りたくはないなと正直思う。食べ物というか農業生産物というのは、その国で出来 るものをその国の人たちがたべればいいのではないか。べつに身土不二とか地産地 消などとことさら言わなくても・・・。
④について。
確かに、日本政府がTPP参加を強行すれば、政府は補助金を相当額だすだろう。 WTOのウルグアイラウンド決着のとき、政府は2兆7000億円の補助金をばらま いた。今回はその数倍出すかもしれない。だが、それで終わりだ。われわれの農業 の明日はそれっきり途絶えてしまうだろう。
TPPは新しい形を変えた太平洋戦争だとわたしは思っている。しかも、敗けること が確実な。TPPは俵津の明日も確実に変えるだろう。
悲しいことだが、地球人類70億人すべてが日米欧先進7ヶ国(G7)の生活水準 を享受することはできない。世界はゼロサム・ゲームの中、誰かが大きく獲れば、 残った小をまた後のものが奪い合う文字どうりの弱肉強食・原始の自然状態にあ る。われわれは、狡猾で獰猛な強欲資本主義から、もう少し優しく分け合い、穏や かでゆっくり時間の流れる別な地球システム・人類システムを創ることが可能な筈 だ。
2013・8・6 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.5 農業はバトルである-Agriculture is a battle.-
マムシ捕獲映像です。⚠️危険ですのでくれぐれも真似しないで下さい!
前回、マダニの話をしたが、自然界には他にもいっぱい人間にとっては怖い相手がいる。特にわたしのように農業をやっているものにとっては、それらと遭遇する機会が多い。今回はその話をしよう。
1
まず、マムシ(俵津ではハメという)だ。やっぱり一番怖いのは、これだ。咬まれたら、まかり間違えば死ぬ。どこに潜んでいるかわからない。そして、その容姿がなんとも不気味な色形紋様をしている。
実際にも、咬まれて手当てが遅れて死亡した人がいるという話はきたことがあるし、そこまでいかなくとも何週間も入院していたという人もいる。一人か二人だが、俵津でも毎年ハメにやられたという人が出る。
幸いわたしにはまだそういうことはないが、遭遇は毎年ある。その瞬間には、尻がきゅっとこわばり体に戦慄が走る。しかしここであったが百年目だ、一瞬の躊躇のあと格闘がはじまる。その場で殺らなければ、いつまたこちらがやられるかわからないからだ。若い頃は、驚きと恐怖で右往左往するばかりで何か棒とか石とか探している間に逃げられてしまうということもしばしばであった(ハメには目をそらすと逃げられるという)。今は、草刈り機さえ持っていれば怖いことはない。ハメの胴の真ん中に軽く刃を当てるだけでいい。ぐにゅっと内臓が出て、しばらくは動いているがやがてぐったっりと動かなくなる。草を刈り終わった空から見通しのきくところへ放置していれば、一時間もしないうちにカラスがどこかへ持って行ってくれる。
日中のハメは、ぐにゅぐにゅと丸まっていて、動きも鈍いからその気になればとるのはわりあい簡単。だが、やはり夜行性動物である。日ぐら目、当たりが薄暗くなると、まるで別の動物のごとく動きは敏捷になる。夜の世界では食われる小動物たちの阿鼻叫喚の地獄が展開されているのであろうか。
2
ハメと順位はつけがたいが、目視出来て(気づかない場合もあるが)怖いのはスズメバチ(俵津ではダンゴバチという人が多い)だ。
わたしも被害者だからその怖さはよくわかる。ある時、甘夏畑で大きな巣を見つけ、「これは、今退治しておかないとこれからの農作業(除草・施肥・摘果など)ができなくなる」と思って、ホームセンターでジェット噴射式の(そうあの3メートルくらい飛ぶやつ)殺虫スプレーを2本買ってきて、エエイッとやった。それがアサハカだった。
大量のハチが死にはしたが残ったのが猛然とわたしに襲いかかってきた。猛ダッシュ・無我夢中、自分がこんなに早く走れるとは思ってもみなかったくらいのスピードで逃げたが、所詮ハチにはかなわない。尻に激痛が走った。一瞬意識が朦朧とする。昏倒・動けない。30分ほどでようやく立ち上がれたので、フラフラ運転で診療所へ行き、注射・点滴してもらってからやっと楽になったのだった。
後日譚。この蜂の巣は、何十年もミツバチを飼ってきてハチのことを知り尽くした蜂取りの名人・Iさんに処理してもらった。素手で挑むIさんの神業に唸ってしまいました。
スズメバチで忘れられないことがもう一つある。
40年ほども前のことになるが、遠縁にあたるSさんの災難だ。
「父ちゃんがダンゴバチにさされたあっ。助けてえー」
倉庫で作業をしていたわたしの所へ、Sさんの娘が血相を変え、涙を流して駆け込んできた。わたしはすぐトラックに乗って走ったが、しかしその現場までは農道がない。一キロほどの急坂を駆けにかけてたどり着くと、Sさんが口から泡をふいて倒れている。ぐったりとして動かない。かすかにウーという声を出している。これはおおごとや。車を横付けできないから背中に負ぶって下りるしかない。その頃には、近くで作業していたNさんも駆けつけてくれていたので、二人でSさんを起こして、まず若い私が背負った。重い。死んだ人が重いという話は聞いたことがあるが、これは非力なわたしにはどうにもならない。百メートルも行かないうちに、へたりこんだ。
「よし、わしが代わる」。Nさんが背負ってくれる。Nさんは筋骨隆々、筋金入りだ。根性が違う。軽々とではないにしろ、残り900メートルを一歩一歩着実確実な足取りで休むことなく車まで運びきってくださった。わたし一人だったら、Sさんは死んでいたかもしれない。
診療所へ駆け込み、手当てしてもらって、Sさんはなんとか助かったが、そのあとしばらくは山へ行けるような体には回復しなかった。
あとから聞いたことだが、Sさんは頭・顔・首・肩・背中に27か所も刺された痕があったということだ。
3
俵津のコワイ小動物たちの話はまだまだ続く。今度はカメムシ(俵津の人たちはシャクゼンという)。
これにもわたしは大変な目にあわされた(すみませんね、わたしの話ばかりで)。
ある時、みかん畑の草を刈っていて蔓わらを草刈り機で思いっきり払った時だ。シャクゼン(まるかめむし)が一斉に舞い上がって、何匹かがわたしの顔に向かって飛来してきた。そのうちの一匹がわたしの左目に触れた。数秒後目に激痛が走る。目があかない。唾をつけて目を何度もこすったが、事態は少しも改善しない。
片目でおそるおそる車を運転して家に帰り、大量の水道水で洗浄してやっと目はすこしあくようになったものの、痛みとあのどうにもやるせない不快な気持ちはかわらない。結局、「じっと我慢の子」になって一週間ほど寝込んでしまった。シャクゼンが出す強烈な酸にやられたのだった。
4
今日はこのくらいにしましょうか。
この他にも人間(わたしたち農家)を困らす動物たちはまだまだ沢山いる。例えばヒル(蛭)、例えばアブ(虻)、例えばしろくさ(ウラジロ)の虫(ガの幼虫)、例えばアリ(アリだって咬まれると結構じくじくと痛いものです)。大きいものではイノシシ(山で遭遇したらコワイですよお)。などなど。
まさに農業はバトルである。きっとわたしの体験は俵津の農家みんなの体験でしょう。こうして農家は今日も、雄々しくも、逞しくも山へと出かけるのです。そして俵津人のヒーローストーリーを創るのです。相手の動物たちにも言い分はあるでしょう。農家はそれも承知の上です。
2013・7・15 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.4 マダニ-MADANI-
マダニ、が跳梁跋扈している。
西日本を中心にこれ迄に二十一人の死亡が確認されている。愛媛県でも八幡浜で二人が犠牲になったと聞く。
そのマダニは、実はこの俵津にも、いる。
早速、その被害にあった方たちの話を聞こう。
証言1 65歳・女性
あたし、はじめ、スイカのタネかと思ったの。
風呂に入って足をのばすと、スネの下にスイカのタネがあるじゃない。今年まだスイカを食べてないのに。指でつまんでとろうとするがとれん。おもいきりひっぱるがとれん。これほどひっぱってとれんのは『イボ』だ。イボだと血がいっぱいでるし・・。
風呂からあがって老眼かけてよく見ると、イボではないみたい。力いっぱい、ひっぱった。『とれた!』。台の上におくと、そのタネがゴソゴソうごくじゃない。タネの下に足をいっぱいつけて。『これ何!』。スネを見ると、小さな穴から血がにじんでいる。タネがスネに吸い付いていたのだ。
それからというもの、痛いのとカユイカユイでもう大変。かまれた傷口に何かが残っている。絞り出す。でない。しぼりだす。毎日がそのくりかえし。だんだん傷口が大きくなってきた。
それからあたし・・・スネに傷もつ女になりました。
証言2 71歳・男性
オラは、ももたぶらいうか股くらいうか、この足の付け根のところやられちの。ズボンの裾からはい上がって来たがやろ。さがしまわって、ここが暗うてやおいんで、ダニが食いついてきたんやろうの。
あそこもどっこも、パンパンにはれて、もう痛うて痛うて。
めんどしかったけんど、宇和の病院にかけこんだら院長が『これはマダニです。あなたで、五人目です』言われとや。
メスで切って、マダニを取ってもろうて、やれやれ。それからというもの、うずいてうずいて、山へ行くのも一週間よう行かんかった。
それから一年後、なんと又マダニに股くらをくわれてしもた。またもや宇和の病院にかけこみ、またくらにメスが入ってしもた(笑)。なんたる不覚!。
証言3 75歳・女性
うちはヘソの下のあの所をやられたんよ(ウフッ)。
モンペはいて、長くつ下でぴっしりしめて、手は軍手と手っ甲やって、顔も首ももう完全武装で、どこっちゃはいるとこないけんどな。モンペの尻にでも穴があいちょったんやろか。くっついてはなれんやった。
とうちゃんがなくなってずいぶんたったけど、みかんつくりが好きやけん、軽トラックに乗って山へ行っとったんよ。それを知っているみんなが口をそろえてゆうんよ。
『そりゃ、オスのマダニぞ!』
三人から話を聞いた跡、おらもやられた、わたしもくわれたと何人もの人から報告が有った。かまれた部位は腰・背中・腕・足とさまざまだが、そこらじゅうにマダニはいると思ったほうがいい。よほど気をつけなければならない。
マダニが怖いのは、さまざまな感染症を引き起こすことだ。なかでも、SFTSウイルスによる重症熱性血小板減少症候群がこわい。幸い先の証言者の人たちを襲ったマダニたちはおだやかな俵津の風土ににて凶暴なものではなかったのはよかった。
自然界はすべて人間が征服し尽くしたと思わないほうがいい。まだまだ自然は危険にみちみちている。
2013・6・28自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.3 宇都宮 健介くん写真展-KOCHI・MAJI-
おっ、これは・・・(なんだろう)。
海坊主か?それとも、放浪の旅の途中の山頭火?
波止桟橋(と思える)にぬうと立ち上がった異形の人影。衝撃的な構図だ。人物を右に寄せて下から見上げた形にしたのが、人物に対する様々な想像を広げるのに極めて効果的になっている。夕闇せまる海の向こうに、左側のアキを充分残しながらも横一線に、これまたぬうと突き出した岬、あれは根崎(ぼら小屋)だろう。これがまたいいのだ。
左側には暮れなずみさざなみ立つ海と空をほどよく取り入れているので、人物の大きさ不思議さ(面白さといっていいのか)がよくあらわされている。とても印象的な作品だ。タイトルを見ると『名前を付けて下さい』とある。・・・ムム・絶句。
うんうん絶妙だ。
それから、『息吹・新田砂防ダム』という作品がある。
宮崎川上流の新田地区にある砂防ダムの下から撮ったものだろうか。新緑にさわやかな風が流れている。したたる水の音まで聞こえているようだ。
また、『川辺・宮崎川』という作品。
これも同川の今度は下流の桜土手を撮った一枚だ。春の空気が匂いたち、水のぬるんだ質感までがよく出ている。ゆっくりと流れる川、歓喜の歌を歌う桜花がとても豪勢だ。
4月3日、宇都宮 健介くんの写真展(宮本 桂子さんの絵画展との二人展)が、俵津公民館で開かれるというので早速見にいった。
彼の作品には、清新な初々しさと共に何かこう大地に根を張ったというかズンとした内部核の様なものが有る。彼は昔日『愛媛医療福祉専門学校を卒業目前に交通事故に遭遇』し、以後電動車椅子の生活を余儀なくされているが、その独特な視点が、それを生んだに違いない。数限りなく自分の境遇を嘆いた日々もあったであろうが、それを乗り越えた姿が、作品には間違いなくある。
個展は大成功であった。
五日間の開催期間中、延べ600人が訪れたという。主催した『東風真風の会』(坂本 甚松会長)の熱意と、家族や友人たちの力強い支援、それに本人の人なつっこくおおらかな人柄がそうさせたのだろう。
余談になるが、俵津公民館が、このような(住民主導の個展という様な)形で使われたのは初めてではなかろうか。この事にも私は深い感慨を覚えるのである。それこそ東風真風(こちまじ)が旋風のごとくに吹いて、俵津の地に“何かが起こり始めたような”わくわくする気分がわたしの中に沸いてきた。
そして、これから、健介くんにはずっと写真を撮り続けて欲しい。健介くんにしか撮りえない視点で、俵津の人たちの暮らしと表情と、変わりゆくまちと風景を、確かに残してほしい。
また、『作品展』開いて下さい。
*健介くん写真は後日掲載します。
2013・5・1自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.2 みんなで歌おう!カラオケの集い!-KARAOKE-
俵津公民館に、カラオケ音響機器が欲しい!
いいマイクで、思いっきり、歌ってみたい!
数年前から、俵津文化協会・カラオケ部会の会員の間にそんな熱い思いが、ふつふつとたぎりはじめていた。それは年毎に渦巻きながらせりあがり、マグマが溜まるように溜まり続けていた。
そして、ついに、それは爆発した。
『よし、やろう!みんなでお金を出し合って、買おう!足りない分は、率直に地域の有志の方達にもお願いしてみよう。そして音響機器が手に入ったら、記念の大会を開こう!』
2012年10月、みんなの募金活動が始まった。
『そげなことやったら、うちらも、文化協会のもんには、こじゃんと楽しましちもろちょるけん、いいよ!』
多くの方たちが私たち(私も文化協会員です)の『夢』に乗ってくださった。
『ああ、この町には、こんなにも温かい人たちがいっぱいいる。』感動がじんじんと胸をつきあげた。
わずか40日あまりで目標額は集まり、私たちは念願の『音響機器』を手にしたのだった。『念ずれば、花ひらく』 ふと、坂村 真民さんの詩句(ことば)が浮んだ。
さあ、今度は記念のカラオケ大会だ!
会の名称は、文化協会員の大会ではなく、広く俵津地区民全体の会にしたかったので、『みんなで歌おう!カラオケの集い!』とした。日程は、みかんの収穫が始まっていたが、『鉄は熱いうちに打たねばならない。』間髪を入れずに、11月23日の勤労感謝の日とした。
急ごしらえではあるが、宇和島の大西舞台照明さんをよび、可能な限りの素敵な公民館舞台を作り上げた。
当日。ホールは、いっぱいの観客で熱気が充満していた。みんなうきうきと楽しげだ。
いよいよ私たちの待ちに待ったカラオケ大会の始まりだ。
オープニング。百紀会(ももきかい)の『三番叟』が門出を祝ってくださる。
トップバッターは、つい先日の4日(2012年11月4日)、宇和文化会館で行われた『NHKのど自慢』に出場して俵津の話題をさらった時の人・三好 モモエさんだ。歌は
『桜みち』若いときから『中村軽音楽』に通って鍛えた声は、衰えをしらない。ハリのあるつややかな歌声が会場いっぱいに響き渡る。音響もいい。新しい機器を手に入れた幸せな実感が、みんなのこころにジワッと広がっていくのがわかる。
つづく人たちもみんな顔を上気させて、楽しそうに幸せそうに歌っていく。
宇都宮 重郎さんが『兄弟船』で登場。バックでは大漁旗が振られ、舞台は最高潮に!
司会者も出演者を引き立て、観客のこころを見事に一つにしていく。見る人も歌う人もみんな気持ち良さそう。
文化協会の初めてのカラオケ大会は大成功だった。カラオケ大会などは、今日日どこでもやっていることだが、音響機器の購入から始める大会はそうザラにあるまい。
私たちには大きな達成感が残った。出場者のみなさん、ありがとうございました。拍手とご声援をいただきました俵津のみなさん、ありがとうございました。これからも、私たちは、この大切な俵津を面白くします。また、やります。
次のスターは、あなたです。
● 俵津文化協会について。
正式名称は、西予市文化協会明浜支部俵津分会。
11クラブ、88人の会員。
俳句・短歌・民謡・詩吟・舞踊・カラオケの部会で活動。
大きな発表の場としては、毎年2月・第二日曜日に開かれる『俵津産業文化祭』があります。今年(2013年)も2月10日にありました。上記のようなカラオケ大会も行い、これも大盛会でした。
俵津分会では、只今会員募集中です。写真や絵画・パッチワーク等何でもかまいません。新しい分野のクラブも是非作って参加してください。いっしょにやりましょう。
2013・4・7
自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
Vol.1 うきな -UKINA-
これは事件である。近頃にない快挙である。
この俵津に『カラオケ喫茶』ができたのである。
レストランもない。コーヒーショップもない。スナックもない。コンビニもない。ゲームセンターもない。もちろんカラオケボックスもない。ついでに信号(!)もない・・・。何も無い町・俵津についにくつろぎ系の『店』とよべるものが誕生したのである。その日は、2012年10月1日。その名は、『うきな』。
店をつくったのは、中井宇喜一さん(62歳)。『中井鮮魚店』を切り盛りしている社長さんだ。
その開店に当たっての言葉がいい。
『これからの人生を、気心の知れた仲間達と歌を歌って楽しくやれたらと思ってね。はじめは、店ではなくごく内輪の個人が楽しむスペースというかスタジオとして考えていたのですが、どうせならせっかくだから地域の皆にも楽しんでもらえたらと、思い直して、思いきってカラオケ喫茶店にしました。』
利益を出すのは二の次・三の次でいい。とにかくこの何も無い俵津を少しでも楽しい場所にしたいという余裕と人間的豊かさを感じさせる言葉ではないか。
これまで、俵津にこの分野の『店』と呼ばれるものがなかったわけではない。何人かの勇敢なチャレンジャー達が立ち上げてはきたが、どの店もあまり長続きはしなかった。人口1300人位の町では無理があるのかもしれない。
でも、ご主人のこういう考え方なら事情はぐっと変わってくるに違いない。この店の末永きご繁栄を心から祈りたい。
ところで、店名の『うきな』だが、体格が良くて男前でキップいいご主人のこと。さぞかし若い頃は『浮名』を流したことだろう!とおもいきや、これは亡くなられた奥様のお名前と自分のお名前合体させたものだとのこと。ご主人の愛と人情の深さを感じるのである。