コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり) 筆:うつみしこう
自由庵憧鶏
じゆうあんしょうけい
Vol.14 『スマイル』‥。これから…。-The future of SMILE-
2015年4月から、西予市の「地域づくり交付金事業」の五年目=最終年度が始まる。「俵津スマイルーいいまちづくり隊」では、この一年の活動をどうするか検討が始まっている。この会の行く末は、やはり大変気になることなので、一言コメントしておきたい。
わたしは、このコラムの(8)で、この事業の問題点や取り組み方について意見を述べた。そこでわたしが述べたことは、四年目が終わろうとしている今、おおむね正しかったようだ(だからと言って何の意味もないことだが)。
3月13日、スマイルの年度末「全体協議会」が開かれたが、その席で次のような発言があった。発言者の言葉そのままではないが、わたしの解釈でそれを伝えると、
①毎年、「年度計画書」を、市側担当職員がつくってしまうが、これをあらため、、部会ごとに構成員がまず集まって、徹底した討論の中でプランをつくるようにしてはどうか。
②これまでスマイルでやってきた地震対策の防災備品の購入などは、市がやるべきことではないか。ただでさえ少ないスマイルの予算をそんなことに使っては本当にやるべきことに使えないではないか。
③俵津はこれから、少子高齢化対策や福祉や介護などさまざまな問題に取り組んでいかなければならない。そこで五年後、十年後の人口動態など俵津の基本的なデータを出して、それをもとにスマイルの活動の今後を決定していくべきではないか。
三人の発言者からは、思いつめたような苛立ちや焦りのようなものが感じら
れた。その気持ちはとてもよくわかる。言っていることも正しいと思う。が、わたしはちょっと落胆した。会が始まった四年前に舞い戻ったような気がしたからだ。なに、またそこから始めるの・・・。
わたしは、もう現状でいいんじゃないかと思ったりする。俵津のわたしたちに、果たして、なにかをしたいというような気持ちはあるのだろうか。新たな俵津の「まちづくり」をしなければならないというようなせっぱつまったものはあるのだろうか。というより、わたしたちは何をしたいのだろうか。残念ながら、わたしたちには、そうしたものは何もないのではないか。あるのなら、この四年という時間の中で、じゅうぶんにそれは具体的なプランとして露出し立ち上がってきたはずだからだ。
わたしたちが四年間でやってきた主な事業をあげてみよう。
1.南海地震に備える防災用品の購入・整備
2.「粗大ゴミ」の回収
3.「俵津ホームページ」立ち上げ
思い浮かぶ大きなものはこのくらい。あとは、従来からやってきた俵津夏祭りや町民運動会・盆踊りなどの補助・追加事業などまったく新味のないものばかりだった。そこからは、「輝かしい俵津の未来像」が立ちのぼってくるようなものは何もない。(1)は先の発言者が言うとうりスマイルで取り上げるようなことではないかもしれない。(2)は、自立した住民なら、市の粗大ゴミ回収日にちゃんと正規の料金を払って自分でやってもおかしくないことかもしれない。(3)は、もう二十年前頃までにはやっていなければならないことだろう。
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確かに、予算があまりにも少ないから、こんな小さなことしかやれないんだ、ということは言えるかもしれない。お金が潤沢にあったらもっと大きなことがやれたんだ、という人もあるかもしれない。けれども、四年間そんな「大きなこと」を言う人は60名のメンバーの中で誰もいなかった(予算が少ないから自己規制して、その範囲でしかものを考えなかったとでもいうのだろうか)。
わたしは、自分をカヤの外においてモノを言うつもりはない。わたしは、誰かの責任追及をしているのでもない。
これでいいのではないか。あまり悩まないことだ。わたしたちは、じゅうぶんに豊かだし、食うには困らないのだから、むしろ西予市の事業をほどほどに喜んで消化すればいい。ほんとうの楽しみは、個人で、家族で、仲良しグループでやればいいのだと思う。切実な課題は、農業・漁業・商業などの団体で取り組めばいいことだろう。
わたしは、自虐的・自嘲的になっているのでもない。ほんとうにそう思っている。
ただ、人間という動物はやっかいなもので、それだけでは“もの足りない”と思うこころを、必ずどこかに持っている。それもまた事実だ。
だから、要は、みんな酒の席などでトッポを言ったり、大風呂敷を広げたりすればいいのではないか。それを面白がる、許す風土だけは最低つくっておきたい。「アイツはバカだ。あんなこと言って」と抑えることだけはしてはならない。
わたしが、このコラムでやっているのは、その「トッポサク」です。ああでもない、こうでもない、とやっていることそのものを楽しむということです。
(やっぱり、ゆっくり考えようか。ワインのように熟成するのを待とうや)。
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・・・。そうやねえ。・・・。うん、たとえば、となりの狩江地区だったら、小学校が統合されることによって地元の学校が廃校になるという危機感があるかもしれない。子供の声が聞こえなくなる。チャイムや音楽室からの音楽がきこえなくなる。そんな寂しさは、理不尽だという思いと共に募るだろう。廃校になった校舎を活かす方策も練らなければならない。「ジオ・パーク」に石灰岩(メッカラ石)の段々畑が認定されたので、そこから地域発展策を考えていく機運も芽生えている。特養老人ホームやケアハウスもあるので福祉や介護問題について考えることも俵津より多いかもしれない。風力発電用風車の建設計画もあるので、その対処策も考えなくてはいけない。無茶々園という有機農業団体もあるのでそこからのアプローチもあるかもしれない。・・・というように「まちづくり」を地域全体で考えあう必然性も生じているかもしれない。
でも、俵津には「切実なもの」は何もないよね。地域全体で考えなければならないようなことは、ホントなにもないよね。
働き口は、宇和島・吉田・宇和・八幡浜・大洲とどこへでもすぐ行けるから問題ないし、買い物も息抜きも簡単にできる。地域がまとまる必要なんかどこにもない。ある分俵津は、発展性はないとしても、明浜町の中では都会的(個人的)で自由で楽しくやっていけるところじゃないかな。
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そうやねえ。たとえば、昭和40年代くらいまでの俵津だったら、500戸のうち300戸ちょっとくらいは農家だったから、農業基本法の選択的拡大路線で、米・麦・芋・桑から果樹(みかん)へと大転換を行ったりして、地域丸ごとといっていい課題はあったよね。でも今は、農家戸数も100戸に足りないくらいになってしまって、(農業問題は依然として地域のベース的問題ではあるとしても)なかなか地区民全体の課題としては上がりにくくなっている。
そうやねえ。俵津が一つになって(一丸となって)もしやれることがあるとしたら、野福峠に桜を植えることくらいじゃないかな。それ以外にコンセンサスをとりつけることができることは、いまのところ、思いつかないなあ。それをやって、住民に「欲」がでてくれば、俵津を全国一の「桜の町」にしよう。そのために地区全体に桜を一万本植えよう、とかいう方向にもっていければいいんじゃないのかな。
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わたしの「行動原理」(おおげさだが)は、とてもハッキリしている。
・おしつけはいやだ
・自分がおもしろいと思ったことしかやらない。楽しいことしかやらない。
この二つだけだ。
「前期高齢者」になってからは、とくにもうこの二つに徹することにしている。
むかしから、この原理で動いてきたことは来たのだが・・・。わたしたちの仲間がこれまでにやってきたことを見ればそれは一目瞭然。
●長く途絶えていた「盆踊り」を復活したこと
●長く分解していた「明浜町連合青年団」を統一再結成したこと
●「俵津スポーツ村」をつくったこと
●「俵津ソフトボールリーグ」をつくったこと
●「新田ふるさとまつり」をやったこと
●「明浜町新春駅伝大会」をつくったこと
●「明浜町青年海外派遣協会」をつくったこと
●俵津夏祭りに「花火大会」をつくったこと
●カラオケ音響機器を購入し、各種芸能大会を開いていること
などなど。
わたしたちは、バーもスナックもパチンコ店も、何もない町のことを嘆くな。楽しみがないなら、自分たちの手でそれをつくれ!ということでやってきた。なんでも面白くするのは自分たちしかいないのだ、ということがよくわかっていたから。すばらしい仲間に巡り合えておもしろい人生を送ってこれた。年は取ったがこれからもホモ=ルーデンス(遊ぶひと)主義で生きていきたいと思っている。
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1964(昭和39)年に、新田の佐藤深志さん(農民画家)が駄馬地区付近で弥生式土器を発見したことから、俵津の歴史はだいたい1700年くらい前までたどれるようだが、今日までの間でこの町の人たちがなしてきた町おこし的事業で、特筆すべきものは次のようなことだろうか(あくまでもわたしの基準でだが)。
●「俵津文楽」(菅原座)をはじめたこと
●「俵津製糸合資会社」をつくったこと
●野福峠に桜を植え、「風景」を作ったこと
●先述したように、一大柑橘産地をつくりあげたこと
歴史的事件としては、アジア太平洋戦争やブラジル農業移民などがあり、幾多の苦難を乗り越えてきた俵津住民だが、この町で力いっぱいの幸福追求をしてきたのはまちがいない。
「スマイル」のこれから、というより「俵津」のこれからを考えようという場合、大事なのは、一つは、こうした俵津の歴史を知ることだ。
大浦地区から集落をつくって行き、脇地区、新田地区へと発展させていって、経済産業・政治・社会文化などさまざまな分野においてたゆまぬ努力をつづけてきた俵津の人たち。俵津を快適に住める人間の環境にしてきたかずかずの人たち。そこから学ぶことはきっと多いはずだ。各戸に一冊は必ずある『明浜町誌』を、この際お互いひもといてみることにしてはどうだろう。
もう一つは、N H K の大河ドラマ『花燃ゆ』でとりあげられている吉田松陰のように「耳を飛ばし、目を長くして(飛耳長目)」日本全国の、また世界のまちづくり情報・知識を得ること。
いま、日本中の市町村では、「地方消滅」の危機感から「地方創生」に向けて必死の取り組みが繰り広げられている。すでにある厖大な実践例の再検証もはじまっている。この国では、大分県の「一村一品運動」の前後から、あらゆるといっていい「村おこし」・「まちおこし」の試みが展開されてきた。わたしたちは、それを学んで、ここで採用できるものを取り入れればいいのではないか。スマイルのメンバー60人が手分けしてそれをやればいい。先進地視察や講演会(や読書会)をたびたび開くこともいい。
ただ、どこかの段階で、「これをやろう !」ということを決めないと、それらは身(実)にならない。聞きっぱなし、見っぱなしに終わってしまう。そのことの苦い経験知はみんな持っているだろう。
「スマイル」の五年目の取り組みは、こんな基本に立ち返ること(いわでもがなのことだが)にこころをくだいていいのではないだろうか。
現在、「スマイル」では、「環境福祉」・「産業建設観光」・「文化体育」・「地域振興」の四つの部会で、活動を繰り広げているが(こういうやり方がいいのかどうかももう一辺考え直してみる必要はありそうだ)、上記を踏まえてそれぞれの「理想形(夢物語)」(予算等の制約にとらわれない)を描いてみたらどうだろう。今、問われているのは「夢見る力」かもしれない(夢を見ることが難しい時代だからこそ)。
ちなみに、吉田松陰のことを言えば、彼から学ぶのはその燃えるような向学心・知識欲・好奇心・情報収集力くらいにしておいた方がいいと思う。ああ、いや、松下村塾の教育理念としてかかげた「華夷の弁」というのもいいな。「自分の生まれた土地に劣等感をいだく必要はなく、その場所で励めば、そこが華だ。松本村という辺境の劣等感を克服して、そこにすぐれた文化的な環境をきずきあげようという誇り高い決意」(古川薫『吉田松陰』 河出文庫)。
でも、彼は狂気の人の面があった。あの時代、「狂気」がなければ倒幕や明治維新は可能でなかったが、幕府要人の暗殺や大陸進出まではかった彼のことを思えば、盲目的な礼賛は控えなければいけないと思う。陽明学の「知行合一」というのも眉に唾をつけて聞いた方がいい。
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さてさて、くどいようだが、「われら、いま、何をなすべきか ?」
わたしの答えは、超簡単。「サケを飲め!」。
とにかく、各部会ごとに別個に集まって、何回も、何日も集まって、次第に打ち解けるまで酒を飲んで、話し合うことだ。「スマイルハウス」はそのためにつくったのではなかったか。
今のように、年度はじめのたった一回の、しかも30分程度の話し合いで、自発的な「何か」が、うまれるはずもないではないか。
「俵津スマイル」、四年間やってもなお、わたしの結論は「話し合いが足りない!」だ。しかも、圧倒的に・・・。
さいわい(かどうかはわからない)、五か年が終わった後も(平成28年度から)、「交付金事業」は、継続されることが決まっているようだ。そうではあっても、今度は「やるべき事業を持っているところ」、「やる気のあるところ」に予算は多く配分されるということだ。
それならなおのこと、「話し合い」をしなければならない。
最後の一年間、話し合って、結論が出なければ、もうやめることだ。「もらうものは、とりあえず、もらっておこうか」ぐらいなら、しんどいだけだ。みんなが(気持ちが萎え、ますます無力感が蔓延していくように思う)。
いやいや、まてよ。なかなか。そうではないかもしれないぞ。やはり、俵津がつづくかぎり、しぶとく、ふてぶてしく、やったほうがいいかもしれないぞ。
俵津には、「空き家」もいっぱいあることだし、都会から、田舎志向・農業志向の若者をいっぱい呼び込んで、彼らの知恵と力も借りれば、俵津をもっともっと素敵に面白くする道を、いつか、発見することができるかもしれないぞ。
あきらめまいぞ。あきらめまいぞ。
2015・3・15 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)
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