コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.19  田中 恒利 先生顕彰碑建立に向けて思うこと。
-That you think about Tunetoshi Tanakas honoring monument erected.-

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 田中恒利先生が亡くなられて、一年半余りが過ぎました。

 「先生の顕彰碑を建てよう!」――永山福重さんと坂本甚松さんの呼びかけで、過ぎ去りし日の当時、選挙運動で苦楽を共にした(ひとはいっぱいおりますが、とりあえずの)8人が応じて発起人となり、「建立委員会」を立ち上げました。私もその中の一人に加わらせていただきました。

 田中先生の身内(親族や関係者)の方には、「選挙の時に、俵津のみんなには多大なご迷惑をおかけしたので、そっとしておいてほしい」とか「どうしても建てるというなら故人の人柄をくんで、小さな目立たないものを」という声があるということを聞きました。そのお気持ちはとてもよくわかります。なんだかほっとする話です。

 しかしながら、それを超えて「田中恒利」という存在は偉大です。このような狭苦しいところからあのような人が出たということは、ほぼ奇跡です。その名に恥じないようなものは建てるべきでしょう。

 一人の「国政政治家」を出すということは、並大抵のことではありません。家族や親族はもとより地盤となる地域の負担は大変なものがあります。あの坂本龍馬を出すために、乙女姉さんは離縁され、長姉のお文さんは自害しました。郷士階級への圧迫も大変なものがあったでしょう。

 私は、今、先生の顕彰碑を建てることの意義を、次のように強く見出しております。
 まず、先生が政治生命をかけて取り組まれたテーマが、今でこそ一層の輝きをもって蘇っているということです。
 いま、安倍政権により、民主主義(憲法)は風前の灯となり、TPP合意でこの国の農業は危機に立たされ、原発再稼動は既定の事実となり、中国との関係は最悪となっております。

 敗戦後、二度と戦争する国にしてはならない、新憲法のもとこの国を民主主義の国にしなければならないと決意して、学び直しのため東京の大学で社会学を修め、郷里に帰って戦後を歩まれた田中先生。
 子供の頃から南予の農民の労苦を心に刻み、農民の暮らしの向上とこの国の農業の発展のため挑み続けられた田中先生。
 ひとたび事故が起これば、地方の人々の暮らしを根底から崩壊させ、「潜在的核保有」が戦争への道につながるとして、原発に反対し続けた田中先生。
 先の大戦で侵略した中国との友好・関係改善こそアジアの平和を築くために大節だとして、自らの寄って立つ農業農民を基盤にした交流を息長くつづけられた田中先生。
 まさに時代の中心課題に果敢に挑み続けた先駆者であった田中先生。このような骨太の国会議員がまったく見られない現在、田中先生を顕彰する意味は限りなく大きいと言わねばなりません。

 それから、「田中恒利という存在」は、何と言っても私たちの青春を、いや人生を面白くしていただいた、そのことへの感謝です。
 田中先生がいなければ、私たちが南予の隅々・津々浦々まで出かけていくことなど決してなかったでしょう。そこで大勢の人たちと知り合うこともなかったでしょう。労働組合の若い人たちと交流する機会もなかったでしょう。中国の人たちとの交流もなかったでしょう。
 また、国政の場へこの俵津から代議士を出せるという興奮、こんなこと望んでも決して出来ることではないでしょう。
 だから、先生の顕彰碑は、同時に私たちの青春の・人生の記念碑でもあるのです。また、日吉の井谷正吉氏の「明星ヶ丘」の碑のように、南予の発展を願い闘った熱い人々の記念碑でもあると私は思います。

 来年の四月一日に予定している除幕式に向かって、私たちはいま募金活動をしております。

 式典の折には、浄財を賜ったすべての方をお招きし、俵津の誇る桜咲く美しい野福峠で記念会を催せたらいいな、と私は(個人的に)思っております。
 死してなお人を呼び込める「人物」が俵津にいる(いた)ということの素晴らしさを、私はいましみじみとかみしめております。
 南予といわず、愛媛全県下、全国各地からの参加者が集う会で、旧交をを暖め、さらなる交流を深め、さまざまな新しい情報交換をし、活力をもらい、「俵ランド」のまちづくりが進展していく機会を与えていただく。それは、とても素敵なことです。
 「顕彰碑」は、そんな役割をも果たすモニュメントでもあるのです。

 最後になりますが、私は、明浜小・中学校の子供たちに、「副読本」を作って、田中先生のことをずっと伝えていくべきだと思っております。子供たちに郷土への自信と誇りを持たせることはとても大事なことです。「足を引っ張り合わない」あたらしい俵津の風土を創っていくためにも。
 田中家の人たちには、先生の記憶(エピソード)を書きとどめ、資料を蒐集しておくことをお願いしておきます。

 付記
1. 先日、閉町記念誌『明浜町誌・続編』(平成一六年二月刊)を読んでいて、田中先生についての記述を見つけましたので、書き写しておきます(原文は縦書き)。

 第一○篇 人物
一. 顕彰
一. 名誉町民
○田中恒利
 大正一四年、俵津に生まれる。昭和四四年、衆議院議院(ママ)に初当選した。以来、六期一九年余の長きにわたって、国土審議会・四国地方開発特別委員・衆議院災害対策特別委員会理事・衆議院内閣委員長・衆議院農林水産委員会理事・日中農林水産交流協会会長等を歴任。  
 国政の場において、国民の福祉向上、地方の活性化に尽力、また、特に日本農林水産業の発展に大きく貢献した。これらの功績が顕著であったとして、平成九年、初の明浜町名誉町民の称号が贈られた。

2. 1986年のことでした。田中先生の自宅に、中国からの研修生の方たちが数名来られました。私たちも呼ばれて、野福峠で酒宴をひらきました。その時、一人の方が色紙に墨痕鮮やかに次のように書いてくださいました(四月六日の日付があります。原文は縦書き)。この色紙は今でも我が家の客間に飾っております。

遠山近海桜花
盛情美径佳語
隣邦一衣帯水
中日人民一家




2015・7・20  自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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