コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.23 『遺族会』
-Survivors Association-

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遺族会

 3月26日、「愛媛県戦没者遺族大会」に行ってきた(松山、県民文化会館・ひめぎんホール)。
 会場に入って驚いた。参加者が異常に少ないのである。3500人入るといわれている全国屈指のこのホールが昨年はいっぱいであったのに、これはどうしたことであろう。舞台の上手側から、南予・中予・東予の順に縦に席が区分けされていたが、順に昨年対比7割・6割・1割くらいであった。いくら何でも遺族の死亡が1年にこれほどあったということは考えられない。日本で最も保守的で役所の動員力は他県を圧しているはずの愛媛県で、こんなことが起こるとは。
 はて、と思案して、ああそうかと思った。おそらくこれは、国の戦没者遺族に支給される「特別弔慰金」の受給資格対象者の基準が変わり、受給者が大幅に減ったためだろう。それにしても、東予人のドライさはどうだろう。「これで自民党は夏の参院選で負ける。衆参同日選もなくなったな」というささやきも聞こえた。

 昨年もそうだったが、広大な舞台の高い天井から吊り下げられた「大会決議(案)」文にも驚かされる。おどろおどろしい文句が並んでいる。異世界に迷い込んだような気がしてしまう。正直、わたしにはついていけない項目が多い。(数字はわたしがつけた。原文は、各々に「一、」⦅ひとつなになに⦆というかたち。縦書き)。

 1.  世界の恒久平和を目指し、戦争の悲惨さを戦後世代に語り継ぐこと。

 2.  総理、閣僚等の靖国神社参拝を推進すること。

 3.  国立の戦没者追悼施設新設構想を断固阻止すること。

 4.  戦没者遺族に対する処遇は、国家補償の理念に基づき改善すること。

 5.  戦没者遺児の慰霊友好親善事業の充実、遺骨収集事業等を拡充強化すること。

 6.  組織の強化・存続を図るため戦没者の孫、ひ孫を中心とした「青年部」の組織化を積極的に推進すること。


 一分間の黙祷の後、会が始まる。壇上には県選出の自民党の衆参国会議員・県会議員がずらりと顔をそろえている。口さがない人は言う、「この大会は、自民党の最大の支持母体による国政選挙の総決起大会=自民党集会だ」。
 なるほど、そうだ。今年の7月予定の参院選挙に出る山本順三氏に対する紹介言辞や本人の挨拶がやたらと長い。これと、講演者として呼ばれた日本遺族会会長の水落敏栄氏(自民党参院議員、今回改選、比例区)の挨拶・講演で大会の大半が割かれた。
 隣の中ホールでは、自民党県連の総会が開かれていて、挨拶の終わった議員たちがそそくさと立ち上がってそちらへ行くのも印象的であった。
 参加者は眠気と空腹をこらえつつ(不謹慎!)、会は午後1時前に終わった。

  「遺族会」というのは、こんな組織だ。以下、一般財団法人日本遺族会のホームページからの引用。

  日本遺族会は、「大東亜戦争」戦没者遺族の全国組織として昭和22年(当時は、日本遺族厚生連盟)に創設され、そして、28年3月、財団法人として認可されました。各都道府県には独立した遺族会が結成され、日本遺族会の支部としての役割も果たしています。市町村にも遺族会が結成されており、各々、さまざまな活動をしています。

  目的
   日本遺族会は、国の礎となられた英霊顕彰をはじめ、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くとともに、道義の昂揚、品性の涵養に努め、世界の恒久平和の確立に寄与することを目的とする。

  事業

  1. 英霊の顕彰と慰霊に関する事業

  2. 遺族の処遇向上に関する事業

  3. 遺族の福祉増進、遺族の生活相談に関する事業
  などを行っています。

 明浜町俵津遺族会(浜田誠紀会長)は、現在64軒の会員(この中には、日清・日露戦争の戦没者遺族も含まれている)で構成。(新年度からは会員が半減することが懸念されている)。
 活動は、独自のものはない(年度末に総会をやって、みんなで飲食して語り合うことがそれにあたるかもしれない)。県の二つの大会(前述したものと、8月15日の戦没者追悼式)への参加。西予市の二年に一度の戦没者追悼式と毎年ある靖国神社参拝旅行への代表者参加。明浜町の三年に一度の戦没者追悼式参加と春夏の慰霊塔(狩浜)参拝、が主なもの。

 わが家では、叔父二人(父の兄と弟)が先の戦争で戦死(一軒で二柱の戦没者を出した家はそうない)。亡くなった父の代わりにわたしが遺族会に入っている。これまでに二度役員もやった。

 会では、親を失った会員(70~80代)から悲しく辛い話を聞かされることが多い。特に母親と苦難の戦後を送ってきた話は身につまされる。くりかえし繰り返し話される父親がいないことが子供にとってどれほどつらいことか、という話。「名誉の戦死」ではあっても、時と共に同情が蔑視に変わり、やがてのけ者にされたり、貧乏で学校もろくに行けなかったり・・・、戦後70年たってもなお癒えない傷をこころにかかえつづけている直接の遺族の話は重い。
 中には、靖国神社に英霊としてまつってもらっていることで「おやじの死は、犬死でなかった」というかたちの話し方をする人もいる(これもとてもつらい話だ)。
 それから。俵津上空を轟音をあげて飛ぶアメリカの爆撃機B-29に不安と恐怖を抱いた話。空襲によって焼夷弾で燃える宇和島が真昼のように明るく不気味に輝いていたという幼き日のしかし鮮明な記憶。
 また、最近では、「今の世の中見てると、また戦争が近くなってるような気がして怖いね」とつぶやくように言う女性会員も出始めた。
 いろいろの思いを抱く人が集まって、抗えない遺族の高齢化の中でなんとか会がつづいている。

 俵ランド(俵津)物語の中で、最大のものは、70年前の戦争だろう。俵津では110名もの方が戦死されている(明浜町戦没者記録誌編集委員会がまとめた『遺勲』に詳しい)。もう二度と戦争を起こしてはならない、俵津から出征兵士を送るというような光景をつくりだしてはならない、俵津から二度と再び戦死者を出してはならない、と強く思う。(しかしながら、俵津の人々の間でさえ、しかもこういう思いさえ、果たして共有できるかどうか、わたしには分からない)。

 父が建てた、遺骨の入っていない二人の叔父の墓(二人の存在の証と不戦を誓った祈念塔・記念碑というべきか)を洗いながら、ふと、思うことがある。靖国神社に在る(という)叔父たちの霊(英霊)をこの中に入れることができたら・・・。

 おじさん。そちらはいかがですか。そこにいて、疲れませんか。肩が凝りませんか。戦後70年です。そろそろ英霊やめてふるさとへ帰ってきませんか。父のお墓のそばで兄弟なかよく、ゆっくりと安気に眠りませんか。
(・・・返事は、ない・・・)。

 ひょっとしたら不遜な考え方かもしれないという思いに身をふるわせながらも、「死者の魂は、故郷の山の高みから、いつも子孫のなりわいを見守っている」という、仏教の死生観とは異なる他界観を展開する柳田國男のような人に導かれて、わたしの想念はひろがるのだ。

 わたしは戦後生まれだから、叔父たちを知らない。「靖国」への思い入れもない(ただ、東京へ行ったとき二度、一人で靖国神社へ詣でて、手を合わせた)。

 なぜ、靖国か、について、先述の遺族大会の講演者・水落氏は言う。「当時の国は、国民に、国のために戦ってくれ、死ねば靖国に英霊としてまつる、と言って戦地へ送り出した。その約束を果たす場所こそが靖国神社なのです。だから、千鳥ヶ淵のような所に新たな追悼施設をつくってはだめなのです。だから、国の責任ある為政者は、靖国へ参らねばならないのです」。
 「戦死者の思い」に寄り添うことこそ大切という論法は、昨年の同大会の講演者であった「英霊にこたえる会」副会長で元滋賀県知事の国松善次氏にも見られた。「太平洋戦争という戦争はなかったのです。当時は、大東亜戦争と言っておりました。戦死者はこの名称しか知らずに死んだのです。彼らは、東亜の解放のために戦ったのです。だから、国のために犠牲になった彼らのことを思うなら、この名称を使うべきなのです」。

 ぎゅうんと時間が止まってしまっている、という感じをわたしは覚えた。厳粛すぎる「戦死」という事実に向かえば、講師たちの言葉は確かに重いし、ある種の説得力も持つ。
 しかし、これでは、わたしたちは、世界の未来へ、人類の未来へ行けない。
彼らには、日本の侵略行為によって犠牲となったアジア・太平洋諸国の2000万人の戦争死者が見えていない。

 わたしは、日本の310万の戦争死者とアジア・太平洋諸国の2000万の戦争死者(第二次世界大戦全体では、5000万人が戦争死したといわれる。その方たちもいれるべきかもしれない)がもたらしてくれたものは、「日本国憲法」だと思っている。この憲法の前文のさらに前には、これだけの数の人たちの名前が刻まれているのだ、と思っている。わたしたちはそれをこそ深々と思わなくてはならないだろう。ここにこそわたしたちが行くべき「未来」がある。

 わたしは、靖国神社の遊就館で、展示されていた人間魚雷「回天」(実物)を見た時のことを思い出す。身動きの取れない操縦席に乗って、暗い海の中を敵艦めがけて突き進んでいく兵士のことを想像した。その言いようのない不安・孤独・恐怖・のがれられない死、おそらく発狂しただろうそのこころを思って、戦慄した。凍りついた。そして、このようなあまりにも悲しすぎる、余りにも惨めすぎる兵器をつくり、国民に死を命じた者たちと国家を情けなく思った。それはもう、なさけなくて情けなくて涙がでてきたのを覚えている。

 わたしは、戦争を知らないが、誰かも言ったように、再び戦争が近づいて来ていると感じるようになった。わたしたちの人権と自由がすこしづつ少しづつ奪われていき、報道が規制され、公務員をはじめとして国民が委縮し始めている。ああ、このようにして戦争というものは始まるのか・・・こころのざわつきを覚えはじめている自分がある。

わたしは、遺族会と自民党が、戦没者遺族の処遇改善に尽力してきたことを評価している。たとへそれが支持基盤を広げる選挙対策から出たことであったとしても、とても他の政党ではできなかったことだと思っている。でも、そろそろ限界を迎えているような気がしてならない。
 俵津遺族会が、かつての大政翼賛会のような組織の一翼を担うようなことにだけはならないようにしなければならない。


2016・3・31 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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