コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.27 『区長会』
-Administrative district assembly -

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 四月は各団体の役員の交代期である。中で最も注目度が高いのが区長。俵津というシステムの運営に直接かかわる役職だからである。今年はまた任期2年の代表区長の改選期でもあるのでいっそう関心が高いようだ。
 今の区長さんは大変だ。少子高齢化と人口や戸数の減少で、たとえば4区や5区などでは一人が何度もやらなければならない状態が続いている。町民運動会の人集めなども年々難しくなっている。青年団がなくなり、婦人会や老人会の会員数の減少などで地域行事などでの役割や負担・責任も増している。
 けれども、代表区長と9人の区長で構成する区長会の力は強い。住民全体がバックにいるからだ。当然行政も無視できない。区長会が結束すれば何でもできる。ことによったら、市会議員よりも大きなことが出来るかもしれない。
 俵津のまちづくりは待ったなし。区長さんの頑張りにエールをおくります。

 と、まちづくりにおける区長(会)の役割論みたいなことを書いてみようと思っていたら、急にわたしたちの区長時代のことが懐かしくなってきた。そっちを記したい。

 わたしたちが区長をやったのは、まさに昭和が終わろうとしていた時であった。昭和63(1988)年4月から、7日間だけの昭和64年を経て、平成元年の3月まで。まさに時代が音を立てて変わった激動期だった。毎日のようにマスコミは十二指腸乳頭周囲がんになられた昭和天皇の容態を伝え(「下血」という言葉が頻繁に使われていたのが耳に焼き付いている)、国中の気分が沈み、全国各地で行事などを自粛する動きが伝播していっていた。

 俵津でも町民運動会をどうするか、秋祭りをどうするか、問題になったが、わたしたちの区長会では、こんな時だからこそ、あえて実行してみんなで元気を取り戻さなくては、とやることを決めた(思えばその決断は正しかった。この年の運動会はとりわけ盛大だったように思う)。

 わたしたちの区長会がやったことで特筆すべきは、「俵津葬祭組合」をつくったことだろう。
 誰言うともなしに、「せっかくこの馬の合うメンバーが集まったのだから、何か記念になるようなことをやろうじゃないか!」ということになった。四つか五つか案が出た(ようだった)。マイクロバスの購入案、俵津の葬式改革の案・・・(うーん、あとは何だったかな?)。
 マイクロバスを買おう、という案は、俵津の人たちは旅行がことのほか好きだから、20~30人乗りのバスを買って、公民館の駐車場に置いておいて、いつでも誰でもに自由に使っていただこう、というようなことだった。

 あれこれワイワイ話しながら、結局決まったのは葬式改革の方で、それもまず祭壇を買おう、ということでまとまった。

 俵津の葬式については、
 ・一番悲しいはずの当事者家族が一番苦労するのを何とかできないか(城川の高川地区のように隣近所が代行するような仕組み作りはできないか)
 ・手伝い回りの負担を軽減できないか
 ・スシ配りなど煩瑣なことを廃止できないか
 ・重たい花輪などをお墓まで持っていくようなことをやめることはできないか
 ・ハデな「オリ」をもっと簡素にできないか
 ・香典(投げ香典含む)の額を少なく出来ないか
など、多くの問題点が指摘され続けてきていたが、誰も手を付けられなかった。
それらの問題に手を付けずになぜ「祭壇」になったのか、もう記憶をたどれない
が、とにかくこうして「俵津葬祭組合」は発足したのだった(田中六郎代表区長の活躍は見事だった)。組合長は代表区長が努め、実際の管理運営者は老人会とした。そのためこの組合は老人会の資金を豊かに提供することとなった。
 今は民間の葬式代行業者が葬儀を取り仕切るようになって需要はほとんどなくなったが、この組合は俵津に四百万円近いまちづくり資金を残してくれたのである。

 邂逅、一期一会・・・人と人の出会いを表す言葉がある。「区長会」というのは、俵津において不思議な出会いの場であるな、と改めて思う。
 それぞれの区で任意に選ばれた区長が、俵津区という全体の区長会の場で出会う。年齢も違い、共通体験も余りなく、考え方も違うであろう人たちが偶然出会って、俵津の運営のために力を尽くしあう。
 いろいろな有り様の区長会があるだろうが、わたしたちの区長会は最初から不思議にメンバーの気が合い、その上で季節が変化する自然のように次第に色合いを濃くし、ハーモニーを奏でるように育っていった。

 区長任期が終わっても、離れがたく、元号の変わった時期に区長をやったことを表す「昭平会」という会名をつけてつきあいを続けていった。区長活動を支えてくれたパートナーたちも加わっての夫婦(めおと)人生謳歌道中である。
 毎年の新年会・花見・月見・忘年会はもとより、旅行もよく行った。一番思い出深いのは(みんなが異口同音で言うのは)、黒部立山アルペンルートだ。信濃大町の出来たばかりの木の香匂う木造旅館は、いい旅を約束するとても良い雰囲気の佇まいでみんな気に入った。扇沢トロリーバス駅へ向う途中、ガイドが教えてくれた、オウム真理教団による坂本弁護士一家殺人事件の死体遺棄現場にかけられたブルーシートの残骸を見たのは衝撃的だった。何より黒部ダムだ。雲一つない澄み渡った空、静謐な空気、神々しい山々。いつまで見つめていても飽きない景色。今でもみんなが会うと思い出話に花が咲く。

 そして、やがて昭平会は、「昭平カラオケクラブ」を作って文化協会の一員となるのだ(仲間の一人、民謡クラブを主宰していた西田功さんが明浜町文化協会の会長だった縁で)。毎月2回ほど宇和島や宇和や大洲のカラオケ喫茶へ行って、会食して帰るのがとても楽しかった。それにしても、歌がキライだったメンバーまでがカラオケにハマってしまい、全員が歌好きになってしまうというのもこの会の不思議さ・魅力だ。

 この出会いは、人生で一番の出会い・宝物だ、とみんなが言う。わたしたちの区長会は、わたしたちの俵津ライフを押しひろげ、さらに豊かにしてくれた。

あれから30年。五人が亡くなり、病を得た人もあり、何よりみんな年を取った。とうとうこの春、カラオケクラブは解散した。が、昭平会はまだ消えてはいない。

2017.4.26 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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