コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.28 赤ひげ先生の贈り物
-Present from Doctor AKAHIGE -


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 明浜小学校校庭の二宮金次郎像の隣り(海側)に一本の見上げるような石柱があるのをご存じだろうか。私はまったく知らなかった。
スマイル会長の山下重政くんに案内されて説明を受けるまでは。彼によると、これは長崎東海さんが寄付した学校の門柱だということだ。
門柱?だったら、もう一本は?あっちだ、と彼が指さす。見ると、20メートルほど離れた鉄棒の傍に同じようなものが確かにある。
「今回、向こうを掘り起こしてこちらに寄せて、俵津の記念文化財として残したいから、おまえ謂れ因縁の文章を書いてくれ」。     
その後、あれこれ思案していると、由来書きが刻まれた銅板が見つかったと言って彼が持ってきたものには次のように書かれていた。

門石ノ由来

 明治四十五年 当時ノ医師長崎東海氏ガ東和病院ノ創立十周年ヲ記念シ 大浦部落ノ平畑二所在シテイタ俵津小学校ヘ寄贈サレタモノデアルガ 昭和十五年 小学校ヲ現在地ニ移転シタタメ 翌十六年平畑ノ旧校地跡ヲ 毛利マサエ、田中ユリエ両氏ニ売却シ 以後門石モ両氏ノ所有トナル 昭和四十一年町教育委員会ノ要請ニヨリ明浜東中学校ヘ寄贈 昭和六十三年再ビ小学校ニ移リ 現在ハ小学校ノ管轄下ニアル
 平成二年 記  (原文は縦書き)

 これでいいではないか。と、思ったが考え直した。長崎先生は、田中恒利先生同様俵津の後世に伝えるべき偉人なのだから、今回の計画を「顕彰碑」的扱いに変更すればいい。この銅板はこれはこれで歴史的文化財として一緒に残せばいい、と思ったのだ。
 山下くんが了解してくれたので、私は(出来るだけ重複を避けたくて)次のような文にすることにした。

赤ひげ先生の贈り物

 これは、校門柱です。こう彫られてあります。
(右柱) 東和病院創立十周年記念寄附
(左柱) 明治四十五年四月 院長長崎東海

 これは、大正元年(1912年=明治四十五年は七月三〇日まで)八月、長崎東海先生が、当時大浦平畑地区にあった俵津尋常高等小学校に寄附されたものです。価額は、当時の五十円ほどだったそうです。
長崎東海先生は、こんな方でした(『明浜町誌』昭和61年刊より)。

長崎東海
(1863~1928)

 土佐の松葉川村(現窪川町)出身。「わしが目を閉じたら、骨は野福峠辺りの見晴らしの良い所に置いてくれ」と語り、俵津の人となって村を愛した人で、故にお大師様の墓地に墓がある。
文久三年(1863)一月二十九日生まれ。俵津に東和病院を開業したのは、東海四〇歳のときである。
外科医術に優れ、村内はもとより郡内外からも患者が多く、多忙の中にも研究を怠らず年一度は上京して母校に新医術を研修して治療に当たっていた。「巧言して患者を迎えず、去る者は追わず、来る者は拒まず、貧病人は銭取らず」であった。また学童にトラホーム患者の多いのを憂い、無料で治療に当たっていた。
 大正一四年七月十二日にNHKのラジオ放送が開始されたが、その年の十月、東海は東京から舶来の「ホーン型ラジオ」を携えて帰村、「文明の利器じゃ、東京の話がここに聞けるじゃー」と言って、みんなを驚かした。これが大変な評判で連日満員のお客さんであったという。 
 政治にも関心が深く、村会議員、郡会議員にも就いていた。さらに東海の特筆すべき業績に、俵津脇の沼地一・五ヘクタールを埋めたてた新田開発事業がある。俵津の人々は感謝と尊敬の念を込めて、現在もその姓をとり長崎新田と呼んでいる。将来公共施設をつくる考えであったが志半ばにして、昭和三年二月二十五日、六十六歳で生涯を閉じる。現明浜東中学校の校門の石柱は、元俵津小学校建築に際し東海が寄贈したものである。

  さあ、子供たち!
  この門より入って、
  未来へ、
  飛び立て!!


 付記   これは、「俵津スマイル  いいまちづくり隊」の文化事業の一環として設置するものです。
 設置日   2017年  月  日

 (以上)

 私は長崎東海さんのことを「赤ひげ」先生とした。「町誌」の事績を読んで勝手にそう判断したのだ。
 思えばこの人、なかなかに興味をそそられる魅力ある人物のようだ。
・門石のいわれももっと知りたい。どうして表に「俵津尋常高等小学校」と彫らずに自分の名前などを刻んだのだろう。
 どうして寄付することになったのだろう。当時の村の有志がお願いに行ったのだろうか。刻まれた年月日、
 明治天皇が崩御され年号が変わるかもしれないという懸念は抱かなかったのだろうか。
・これほどの人が、どうして俵津に来たのだろう。どうして俵津を選んだのだろう。俵津の何を愛したのだろう。
・四十歳までどのような人生を歩まれてきたのだろう。医学のほかにどのようなことに関心を持っていたのだろう。
・政治家としてはどのような構想を持っていたのだろう。作ろうとしていた「公共施設」とはどのようなものであっ
 たのだろう。
・「新田開発」という熱い意志は、どうして生まれたのだろう。その事業はどのようになされたのだろう。
 どれほどの財力を費やされたのだろう。
・家族のこと、俵津の人々との交流のことなども知りたい。
・病院名の東和は、東宇和郡から取られたというが、「東和」という言葉にどんな思いを込められていたのだろう。

 「長崎東海」と「長崎新田」という〝言葉〟(子供にとって名前はことばだった)は、私も子供の頃から聞いていた。夢見がちな子供であった私はそこに何とも言えないほんわかとした親しげで楽し気なものを感じていた。
  ちかじか、お大師様にあるという墓所へ行ってみたいと思っている


  ※『俵津小学校誌』も参照した。

2017.5.25 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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