コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.33 『ああ!無茶々園・40年!』
-”40th anniversary ! That’s Muchachaen !”-

無茶々園のこと | 無茶々園|ジュース・柑橘・海産物・有機栽培・みかん|愛媛県・西予市.pdf


俵津での出来事ではないので、書くのをためらっていたのだが、やはり書いておきたい。「無茶々園」のことだ。無茶々園は、今年40周年を迎えた。半年前の4月8日、かりえ笑学校(旧狩江小学校)で『農林水産祭むらづくり部門天皇杯受賞・40周年記念式典および祝賀会』をやった。

 その時、受付で渡された資料を見てぶったまげた。「大名小名綺羅星のごとく並ぶ」じゃないが全国から呼んだまことに豪華な来賓名が240人、ずらーっと掲げられている。環境大臣の山本公一氏(参加は代理)、参議院議院運営委員長の山本順三氏をはじめとして、県・市の議員、県の局長・部長、西予市長・職員、愛媛大学教授、生協役員、全国の取引先の重鎮、等々めまいがするような名前ばかりだ。無茶々園の40年の活動というものがいかに多くの人たちとの関わり合いであったかがこれでわかるというものだ(もちろんこういう人たちを最大限招いた会にしたのには、したたかな無茶々園の未来に向けての戦略も明らかにあるだろう)。
この人たちに加わってわれわれ生産者と職員が入った講堂は人いきれと熱気でむせ返るよう。この会はおそらく明浜町始まって以来の規模だったのではないか。
 私自身は、生産者・職員と消費者だけの静かなしかしあたたかい会合を望んでいたのだが、なつかしい顔・顔・顔と話しができてよかった。それに、Yae(加藤登紀子さんの娘さん)のコンサートなどもあって春の一日、充実感と幸福感に満たされて過ごしたのだった。
 言わでものことだが、わが農業人生の選択は誤っていなかった、無茶々園に参加していてよかったなあ、という熱い感慨もあらためてやってきていたのだった。
 2017年は、記憶に残る一年になるだろう。

1、

 今回の私のコラムは、これで終わり。のつもりだったが、このTHP(俵津ホームページ))の読者の中には無茶々園のことを知らない方も大勢いるので、せっかくの機会。コラムの趣旨に沿った線で紹介させていただきたい。

 無茶々園の生産者・スタッフは現在合計で259人(生産者は一家の代表者だけのカウントだから、家族を入れればスゴイ数字になる)。
 無茶々園グループの組織(トータルの名称は、「地域協同組合・無茶々園」と言う)は、次の六つ。
1、農事組合法人無茶々園
   ・柑橘類の栽培
   ・生産資材の共同購入
   ・農業に関する協同・協業
2、四国エコネット
   ・農産物の生産
   ・有機栽培の広域化
3、株式会社地域法人無茶々園
   ・農産物・海産物の販売
   ・加工品の企画・製造管理・販売
   ・選果・出荷場運営
   ・生産管理・情報発信
   ・経理・管理業務
4、株式会社百笑一輝
   ・高齢者向け福祉サービス
   ・総合福祉事業
   ・『めぐみの里』『海里(みさと)』運営
5、ファーマーズユニオン天歩塾・北条
   ・有機農産物の栽培・加工
   ・大規模農場の運営
   ・新規就農希望者の育成
   ・体験研修の受け入れ
6、ファーマーズユニオン ベンチャー
   ・農水産物の販売および生産管理
   ・ベトナム国内向け産直販売・輸出
   ・農業実習生の育成・送り出し
これに「海の生産者」が加わり、「西日本ファーマーズユニオン 西日本有機農業生産協同組合」との連携がある。
 無茶々園の創業は、1974年(昭和49年)。創業者は、片山元治・齊藤達文・斉藤正治の三人。

2、

 無茶々園の歴史(歩んできた道)や具体的な活動内容などは、村田武先生(愛媛大学アカデミック・アドバイザー、九大名誉教授)が書いてくださるそうだから、それを見ていただきたい(来年1月、農文協より出版予定)。
 合わせて、偉大な社会農学者でわが田中恒利先生とも親友であった安達生恒先生の『村の戦後史 南伊予みかんの里 農と人の物語』
(有斐閣 1989年)を読んでくださると、片山たちの活躍が手に取るようにわかる。もちろん、俵津の人たちの活躍も。ぜひ。

 さて、無茶々園は「みらい」をしっかりと見つめている。
 この日配られた記念誌(「無茶々園の40年」)で言う。
  「新しい事業、運動を起こせない組織は衰退してしまうことは歴史が物語っている。
では、これから無茶々園は何をめざすべきか。地域自給と事業推進による自立したモデルを作り上げ、まちづくりまで事業化すること。無茶々園のモデルを世界へ広げ、ネットワークを構築すること。そのために重要なのが、都市生活者、世界の人たちとつながる共感力だろう。」
そして、四つのテーマをかかげる。
(1)これからの山と海を描き、形にする
(2)消費者・都市生活者との新しい関係をつくる
(3)無茶々園らしい海外展開
(4)地域の必要、地域の魅力を仕事の形につくりあげる

長くなるので、詳しいことは説明しない。知りたい方はまだ残部が少々あるかもしれないから無茶々園へ電話して、もらって読まれたし(Tel.0894-65-1417)。

無茶々園のいまのスタッフたちならきっとやるだろう。私は、彼らに絶大な信頼を置いている。
新しい明浜がやがて立ち上がる。楽しみだ。

3、

こんなワクワクする〝夢文書〟を読んだら、私までなにか言いたくなってしまう。そう、私の中のあの妄想コンドルがまたまた蠢きはじめるのだ。何を隠そう、〝妄想コンドル〟とは、シイタケ栽培や炭焼きや狩江ジオパークの案内役などをやっている無茶々園の老人組織「妄想コンドルの会」の鳥たちのことだ(名づけ親は齊藤達文だ)。そこから俵津へ向けて飛び立ったよれよれのはぐれ一羽が私だ。
私は、無茶々園のこれからに、次のような取り組みを入れていただきたいと思う。

(1)年間来訪者一万人、の仕組みづくリ
   ついこの間の総会で、新会長になった宇都宮幸博くんが上記記念誌の中でこんなことを言っている。「地域に人を呼んで、作っているものに対して、いかにファンを作っていくか、これが重要だ」「地域まるごと生かした交流を行い、長い付き合いのできるお客さんを増やしていきたい」。ちなみに無茶々園で狩江以外の人間が会長になったのは彼が初めて。ご存知のとうり彼は俵津の若手ナンバーワンのホープでもある。
 上記「みらい」づくり方針の(2)でも、「来訪者の受け入れ・滞在・交流を、地域の提供するサービスとして高め、事業化することを目指す」とあるが、これは無茶々園の長年の課題でもあった。
 これを実現するには、それなりの覚悟がいる。まず、狩江地区の生産者全員が来訪者を自宅に泊める腹を決めること。これが出来れば、ことの八割はできたも同じ。交流の形は、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人の意。ホイジンガは人間をこのように定義した)の達人・新会長が知悉している。それをシステムにすればいいだけのことだ。あとは、ネットや生協のチラシ他を使って、募集をかけること。
 聞くところによると、あの「大山町」は年間60万人をこえる来訪者があるという。あの「馬路村」は30万人とか。これがどれだけの地域の豊かさを生むか、考えてみるだけで胸がおどる。経済だけではない。ここの人間の心までもを豊かにするのはまちがいない(来訪者の心もきっと豊かになるに違いない)。狩江の人たちは、まちがいなく全国区で通用する。コスモポリタンにもなれる。
 現在の無茶々園への来訪者は年数十人程度か。目標を一万人に掲げ、5年で達成しよう。
 人材がいる。私達も変わらなければならない。

(2)出版事業をやろう
   まず、出すべきは、次の本。
・片山元治『自叙伝』、そして、世界を幸福にするための『宣言書』
・五味明憲『あけはま写真集』
・都市の子供たちに向けた絵本『みかんの仕事の一年』『海の仕事の一年』
・原田義徳『詩集』

(3)自然食レストラン
   全無茶々園の有機農産物を使ったレストラン。宇和・松山・東京に展開。
まずは、有機米を使った薪と羽釜で炊いた握り飯や卵かけごはん(卵はもちろん有機有精卵)から始めたらどうだろう。

(4)「ハワイ」へ行こう
   田舎暮らしの楽しみを作ろう。「梅栗作ってハワイへ行こう」の大山町のようなこと、つまり百姓のモチベーションを高める活動は、やるべきだと思う。片山のベトナムでも中国でもヨーロッパでも場所はどこでもいい。ミカン代をキロ5円積み立てれば簡単に行けるのだから、古い施策(まちづくり手法)ではあるがやったほうがいい。

(5)居酒屋「無う茶(ムーチャ)」が欲しい
   狩江公民館前の広場あたりに、どうだろうね。


 大きな共通の目標があって、全国から知恵が集まり、それぞれがそれぞれの持ち味を活かしながら多様な展開をしていく。そういう団体・組織がこの小さな浜まちにあるということは、大きな希望だ。

2017.10.20 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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