エッセイ
『私の映画案内』 筆:西田 孝志
第四回 『父権制の喪失』
小津安二郎監督の「東京物語」から「麦秋」「彼岸花」「秋刀魚の味」とみてきて、成瀬巳喜男監督の「山の音」を見た時、始めて私は、
私達の失ったものと、得たものについて考え始めた。その事を映画「山の音」の簡単な解説とともに説明していこう。
映画は昭和29年制作。私達が6才の頃だ。原作は川端康成の同名小説。
北鎌倉の閑静な住宅地に居を構える一家があった。主人公は引退間近の男性(山村聰)、他に彼の妻と息子夫婦の四人である。彼にはある悩みがあった。息子夫婦の仲が良くないのだ。嫁は(原節子)義父の眼から見ても、従順で、いつも明るく、笑顔でよく働き、自分に優しい態度を見せる。申し分はなかった。問題は長男(上原謙)だ。自分の嫁に対し、冷酷で、非道い扱いをする。妻への思いやりがなく、無視をするか、非道い言葉を平気で浴びせる。彼は何度か意見をした。すると彼は「あの女のセックスには、面白みがない」などと、平気で口走る。その内に、嫁いだ娘が子供を連れ、家に帰ってきた。夫に愛人が出きたと言う。もう家には帰らない、ここで養ってと、居座ってしまう。諫めると、あなたの育て方が悪い、夫の選び方が悪い、と返してくる。彼は始めて自分が子育てに失敗したことを悟った。子供達に共通するのは、他者への配慮と思いやり、さらに敬意の欠如である。私は思う。これが戦前の事なら、個々人の問題は家父長制の中で、家の問題として捉えられ、家長が最終的な判断を下す事になっただろう。良し悪しに関係なく、家族はそれに従わざるを得なかった。それが、その時代の最良の選択であった。だが時代は変わった。個人の問題は個人が最終的に判断する事なのだ。今や彼に家長としての権力はなく、故に問題の根本的な解決策も見い出せず、問題は唯ひたすら先延ばしされてゆく。やがて破局が訪れる。息子に愛人がいる事が分かり、それを知った嫁は妊娠した子供を意図的に堕ろしてしまう。彼は何とか、事態の収拾を図ろうとする。それが義務感からなのか、あるいは父として権威の回復をおもっての事か?彼には分らない。彼は先ず息子の愛人に会いに行った。そこで再び、絶望と無力感に襲われる。彼女も妊娠していたのだ。そして男とはすでに別れた、とも言った。彼は打ちのめされ、言葉を失った。彼女の憐れみとも、蔑みともつかぬ眼差しの中、彼はいくばくかの金を置いて立ち去るしかなかった。その後息子の嫁と会った。彼女の声は意外に明るかった。その声の調子で、彼女が別れを決意した事を彼は悟った。
彼は最後まで、父としての権威を示すことが出きなかった。彼や彼女の判断に父として関わる事は出来なかった。権威を失ったと同時に、その反作用としての女性の自立と、自我の確立を見た。それはある面、良い事だが、昔のほうが良かった、などと私は言っているのではない。時代も思想も変わり、最早、世間は父親に何の権力も与えない。彼の発する言葉には最早なんの権威もなく、彼に求められるのは、唯、優しさと思いやりのみである。それもある面致し方のない事だ。だがあえて言えば、家庭の中の不確かな、何の法的な裏付けのない、権力、権威を嫌い、排除して行けば後に何が残るだろう?どう言った事が世間で起こるだろう?
家庭の小さな権力やそれが持つ権威が否定されていくと、世間はやがて、不透明で不確かな権力や権威を嫌い始める。タブーの存在を認めず、すべてがあからさまにされ剥き出しの事実だけを望むようになって行く。この世界では真の才能は認められず、プロとアマの垣根はなくなって行く。何故か?才能は見えないからである。素人の歌番組が流行るのはこの為かも知れない。こう言う世界では真の偉大な才能は、その偉大さゆえに排斥され、排除される。求められるのは、親しみやすさであり、優しさ、そして愛嬌なのだ。これが第二の美空ひばりや黒澤明が出ない理由の一つかも知れない。
では権力のない家庭で家族はどうなるのか?権力の裏付けのない権威は存在しない。存在しない者の言葉など誰も聞きはしないだろう。人は自己実現の為、常に評価を求めていく。自らの行動の良し悪しの判断を誰に求め、評価、権威付けるのか?最早、権威のない父親ではない。自らの行動、趣味、嗜好に到るまで他者に価値判断を仰ぎ続ける。そして最後には自分の日常生活をすべて曝け出し、イイネと認められようとする。最良の判断者が身近かにいるにも関わらずに。これが現代のソーシャル・ネット隆盛の一因なのだ。
どんな世界に住もうが、私達はそこで生き、前に向かって進むしかない。ある人が言った。「人生は過去を振り返って生きるものならば、前へ進むしかない」
長くなりましたがこのへんで、ゴキゲンヨウ。
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