コラム
『俵ランド物語』(たわらんどものがたり)  筆:うつみしこう
                      自由庵憧鶏
                                              じゆうあんしょうけい

Vol.36 『餅まきと古希同級会』
-Mochimaki & The 70-year-old Alumni Association-


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 2月10日、俵津産業文化祭の初日、オープニング・イベントで、「餅まき」をやった。やったのは、わたしたち、「古稀同級会」に集まったメンバー50人である。それはもう、壮観であった。これまでの最大数のまき手が、公民館の玄関上のベランダ(バルコニー?)から、喜びに満ちたおばちゃん声・おっちゃん声を張り上げて勢いよくまく、撒く、まく。笑顔も一緒だ。コラショ、ほらしょー、ソーレイ、ソーレイ。拾うものも拾うもの、どこにこれほどの人がいたのか、直前に玄関前広場を埋め尽くしたひとたちが歓声をあげながら、拾う、ひろう、拾う。わずか五分に満たない時間ではあったが、公民館は祝祭空間を呈していた。
 この餅まきは、六年前、当時の公民館長を務めておられた西村権司さんの同級生たちが始めたものだった(発案したのは、西村氏によれば、片岡春恵さんということだ)。古稀の記念の同級会が、少しでも思い出深いものになればいい。産業文化祭が、大勢の参加者を得て、少しでも賑やかに華やかになればいい。そんな強い思いを込めて、何度も集まって、検討されたそうだ。二つの方向からの思い・願いが合致したイベントは大成功だったと、西村さんは回想する。そして、願わくば、後に続く古稀を迎える人たちが、同じ思いをつないでくれたら、と当時思ったという。
 西村さんの同級生たちの思いは、受け継がれた。今回まで一度も途切れることなく続いた。それも、強制では全くなく、各年代それぞれの自主的な〝事業〟として。この辺が、俵津のいいところなのだろう、きっと。「夏祭りの花火大会」も、同じように、続いているし。

 とは言っても、「餅まきなど嫌だ」という、ほんとうに心優しい人たちもいることをわたしは伝えておかなければならない。彼らは言う。「どうして、餅まきなどやるのか。餅まきは、上から目線の、蔑みの行為だ。自分はそんな偉そうな立場に立ちたくない。好き好んで、そんな催しをやることにも反対だ。どうしてもやるというなら、自分は、参加しないか、拾うほうの立場に身を置きたい」。
 そこで、わたしは、「餅まきの始まり」についてネットで調べてみた。そこには、こうある。

 「餅まきの由来は、上棟式(建前)などで、災いを払うために行われた神事である散餅の儀(もしくは散餅銭の儀)が、発展的に広まったものです。
 家を建てるということは、大きな厄災を招くという考えがあり、その厄を避けるために餅や小銭をまいて他人に持って帰ってもらうという説があります。
 古い時代には、家を建てるということは、(地域)の共同体による共同作業でした。
 「家を建てる」=「富がある」ということの象徴で、その富を地域の共同体で分け与えることで、厄災(家を建てられない人の嫉妬も有ったと思います)をさけるために、神饌(神に供える酒食)であり保存食でもある『餅』や、富の分配の形としての『小銭』をまく(分配する)ことが、地域の共同体の中での生活を円滑におこなうための習慣だったようです。
 平安時代から鎌倉時代にかけて上棟式そのものの習慣が広まり、一般庶民も行うようになったのは江戸時代からだそうです」。

 彼らの言うこと、彼らの心性には、根拠があった。わたしは、そういう彼らのことを、忘れないでいようと思う。ちなみに、私はと言うと、幹事だったので、都会からはるばる帰ってくれた人に少しでも多く撒いて楽しんでもらおうと思って、撒かなかった(別にいい子ぶってるわけでも何でもない。わたしは意外とそんなことには無頓着)。

 また、こんなことを言う同級生もいる。「こんなこと(同級会や餅まき)は、昔の俵津の花見だった4月3日にやるべきだ。美しい野福峠の桜の下でこそ、何十年も故郷を離れていた友たちを迎えたい」。「4月3日の花見」を復活させたいという彼の熱情には、心を動かされるが、現状では難しいと他の同級生は言う。
 これまでの人生で経験したことのない今年の冬の〝寒さと雪〟にほとほとまいってしまったわたしは、期日は別として、花見の季節にやるというのは、賛成だ。先の西村さんも、「産業文化祭も、もちろん大切だけれども、わたしたちは、そろそろ、野福とさくらの方へ目を向ける時期にきているのかもしれないね」と言っておられた。松商の校長や愛媛県高野連の会長を務めてこられた西村さんの目は、すでに次の別の世界へと向かわれているのかもしれない。あたかも今、俵津スマイルは、組織をあげて、「さくらのまち・たわらづ」を創ろうと立ち上がっている。

 俵津の人たちは利口だ。長い年月をかけて生み出した村の知恵とでもいったらいいのか、厄年の人たちに何かをさせる、お金を出させる、というやり方を編み出してきた。それをさらに、意識的に使う、ということは、これからも考えていい。もっとも、古稀からは、厄年ではないが(喜寿・傘寿・米寿・白寿・大還暦、全部祝いだ、寿だ。還暦も半分はそうだろう)。安倍首相の「働き方改革」には、疑問を持つが、俵津のまちづくりにおける住民自らの「働き方改革」は考えられていい。
 ともあれ、なんやかんや、あれやこれや。こうして俵津の人々の織り成す「俵ランド」の「物語」は、つづけられていくのである。

 さて今度は、わたしたち(昭和23年4月2日から翌24年4月1日に生まれた者)の「古稀同級会」(子丑会)のことだ。2月9日の宮崎旅館は、50人の同級生であふれかえっていた。みんなの肩と肩が触れ合うせりこせりこのぎゅうぎゅう詰め。戦後のどさくさ(!)に生まれに生まれた団塊の世代の真ん中のわが同級生たちは、こんな場面で盛り上がる、興奮する。なにしろ、わたしたちが小学校へ入学した時には全校児童は600人近くもいたのだ。校庭で遊ぶにも、当番を決めて、朝暗いうちから行って場所を確保しておかなければならなかった(幹事長の酒井節子さんも、あいさつの中でそのことをしきりに強調していた)。DNAの血が騒いだのだろう!
 「餅まきをやる!」という触れ込みが呼び寄せる効果も大きかったのだろう。110人!(これは俵津の歴史上最多。考えてみて下さい。一年間3日に一人、この俵津でオギャーの呱々の声が上がっていたのですぞ!)もいる同級生が、これまでどんなにしても、35人以上は集まらなかったが、今回は違ったねえ。
 いやあ、みんな若い若い。元気元気。盛り上がったねえ。沸騰したねえ。次は、7年後(喜寿)に会おうということになった。
 わたしは、むしょうに歌いたくなったねえ。小林旭の「素晴らしき哉人生」!(二次会の店がない俵津は寂しいねえ)。


             『素晴らしき哉人生』
                                         作詞・阿久 悠
                                         作曲・鈴木キサブロー
                 心の芯が 熱いから
                 仕事もできた 恋もした
                 一途に 夢を追って
                 今 しあわせ
                 ちょっとお先にと はやばや 逝った友あり
                 待っていますわと 一緒に歩いた 女(ひと)あり
                 ああ 素晴らしき哉人生

                 瞳はいつも 澄みきって
                 こどものように 見つめてた
                 愛ある 日々を願い 
                 まだ 純情
                 いまはアルバムの ページで 生きる友あり
                 言葉少なめに こころを伝える 女(ひと)あり
                 ああ 素晴らしき哉人生

                 泣いて 別れたり 出会って 肩を抱いたり
                 長い手紙など 突然 書きたくなったり
                 ああ 素晴らしき哉人生


2018/2/22 自由庵憧鶏(じゆうあんしょうけい)


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